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菅野彰

菅野彰の日記です

「七年目の気持ち/岩手県釜石市のこと」

 明日で七年目。
 東日本大震災で犠牲になった方々に、心から哀悼の意を表します。

 ずっと書けずにいた岩手県釜石のことを書きたい。ちゃんと書けるかな。
 六年目のわたしはこんなありさまでした。読まなくてもいいよ。酷いありさま。
 「六年目の気持ち」
 でもそのあと春彼岸に南三陸(赤い鉄骨の防災庁舎のあるところです。二十四歳の遠藤未希さんが、最後まで「高台に逃げてください」と呼びかけつづけた庁舎。彼女の行方はまだわかっていません)に行ったら、お彼岸で集まっている地域の人々に笑顔があった。
 その後五月にまた釜石に行ったら、釜石も友人も前へと歩き出していた。
 わたしも「おうちごはんは適宜でおいしい」(徳間書店)の中で、「東北のおいしいものを食べて知ってと言えるようになった」と書けた。
 けれど3.11が近づいて来て、また気持ちが落ちてきてしまった。
 理由ははっきりしているので、釜石市のことの前に、一つわたしからのお願いにどうか耳を傾けてやってください。
 この時期になると、
「観光やおいしい食べ物を見て。楽しいことを知って。お涙ちょうだいの話はもうたくさん。それが東北の復興の妨げになる」
 こういう言葉をよく見かけます。
 前半は本当にその通りだと思う。見て知って訪ねて欲しい。おいしいしきれいだよ。
 そしてわたしは、あの日に起こったことを知ってとも目を背けないでとも言いません。
 お願いしたいことは、あの日に大切な人の命を目の前で奪われた人々の悲しみに、こういう言葉で蓋をしないでくださいということ。
 これは当時八歳だった少年が、今読書感想文を通してやっと言えたこと。
「母の死“封印”した少年が初めて語ったこと」 
 「助けて」というお母さんを置いて逃げるしかなかった少女。
 「行け」とおばあちゃんに叫ばれて津波から走って逃げたことを悔やみ続ける子。
 七年で癒える悲しみだと思えますか。わたしはとてもそうは思えない。
 お願いです。彼らの悲しみや涙を、見てとは言わない。お願いだから否定しないで。ないことにしないで。誰かが聞きたいといってそれをメディアが流すのなら、見なくてもかまわないから「もうたくさんだ」なんて言葉をどうか吐かないでください。言葉にして初めて自覚して歩き出せるということもあるの。お願い。

 こういう「悲しみの記憶はもうたくさん」という感情が多くの人にあるのがわかっていたので、二年前初めて岩手県釜石市を訪ねたあとわたしは無言になりました。
 実際何も終わっていない釜石市に行って、案内してくれた友人の記憶を聞いて、それを記事にして伝えることが釜石の復興の助けになるとはとても思えなかった。
 その感触は今も変わらないので、今回も詳細には書かない。
 海は嘘のように静かできれいで、雲丹がとてもおいしかった。季節がきたら訪ねて見て欲しい。

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 そこから無言になって、一年後にまた釜石を訪ねました。
 行ってよかった。
 一年前の釜石のことを書きたいから書くよ。希望があったんだよ。二年前には感じられなかった希望があったの。その話を聞いて欲しい。辛い話もあるけれど、そこは多めに見て。
 「帰ったきた海馬が耳から駆けてゆく」(新書館)に書いたけれど、二年前友人は海に近づけなかった。
 手前で車を停めて、
「子どもの頃泳いだりした海なんだけど、行けないから行って来て」
 そう言われて防波堤を越えて見た海は、コンクリートで埋め立てられていた。
 彼女の記憶にある海はなく、埋め立てられたことも彼女は知らずにいた。
 伝えるのは辛かったけれど、見たままを伝えた。
 けれど一年前訪ねたときに彼女は、
「海に行きたい」
 と言った。
 そのときわたしは、
「それはあの海には行けなかったけれど、行ける海があったということなのか。それとも今日初めて行ってみようと思えたのか。いつからか思えたのか。わからないけれど聞かずに一緒に行こう」
 そう逡巡しながら、一緒に海に行った。
 きれいな静かな海でした。海鳥がたくさんいて、上の高架が津波で曲がったままだったけれど、それ以外はごく普通の海。
 小さなお子さんを連れた家族連れ、犬の散歩、みんな普通に浜辺を楽しんでいる。
「あ……」
 ふと彼女が言った。
「震災のあとはずっとみんな、浜辺では下を向いて歩いてたって聞くのに」
「どうして?」
「遺品や……家族の何かを探して、みんな砂を見て歩いてた。でも今日は違う」
「……本当だね」
 家族連れを見つめるとお子さんは三歳くらいで、そうかその日のあとに生まれた命なんだと気づいた。
 一年前はまだ悲しみで身動きができないように見えた釜石市が、変わっていた。
 胸が詰まるとかなにかこみ上げるとかそういう大げさな感情ではなく、私もそれを見てる。
 きれいな海だ。
「海と一緒に生きて来たから、海はやっぱり好きだ」
 釜石で生まれて釜石で育って、震災があっても釜石を離れない友人が、初めてそう言うのをわたしは聞いたよ。

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 この日は大槌町に行った。
「町があったんだよ」
 教えられて言葉もないほどに、何もない。大槌町役場は、きっちり震災のときで時計が止まっている。
 写真を撮る気持ちにはなれなかった。
 震災で家を奪われた人々は、復興住宅に入居して新しい生活をしている。
 わたしは田舎で九十六歳で大往生したばあちゃんがいるのでこれは体感として強くあるけれど、一軒家で生まれ育った田舎のじいちゃんばあちゃんは団地に入っただけで弱っていってしまう。
 土地はあるのだから、本当に必要なのか説明のつかない盛り土やスーパー防波堤の前に、小さくてもいいから平屋の復興住宅を作りたい。福島県にはあるの。無茶な話ではないの。
 その住宅に入った職人のおじいちゃんが、人と交わらず鬱傾向になってという話を彼女から聞いた。
 様々なサークルを作って、元々の仕事に近いものを探してすすめたり、とにかく生きてもらおうって彼女は必死。
「趣味とかないの?」
 彼女はじいちゃんに訊いた。
「そんなのいらないんだ。前はふらっと浜に出て煙草吸ってたら、じいちゃんどうしたのって誰かしらが声かけてくれて喋って。そんなんでよかったんだよ」
 じいちゃんはそう言ったという。
 福島県では原発周辺から立ち退きを強いられて散り散りになった人々が、同じ思いをしている。
「でもそれは……もうとりかえせないものだよね」
 聞いているわたしも、認めざるを得なかった。
「うん」
 クラッシュアンドビルドという言葉を使うなら、この老人たちの声にまず耳を傾けて欲しい。
 もう一度作らなければいけないものは、簡単なことじゃない。取り返しがつかないものなんだよ。
 夜、一年前と同じ居酒屋に行ったら、お店が増えていた。
 相変わらず海の幸は、本当においしい。

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 翌日釜石を離れるときに、朝市を見た。去年から始まったそうだ。
 町の人には大きな笑顔があった。

 この少し前に関東で、六十二歳の女優さんとお話しした。
 小五以来会ってなかった同級生の同窓会に呼ばれて、行ったのよと語られて驚いた。
 どうして行こうと思ったの? と思った。女優さんだからそんな何十年も会っていないのに同窓会に呼ばれて、むしろ嫌じゃなかったのかなって思った。
 女優さんはとても楽しかったと、その同窓会の話をしてくれた。
「わたしも介護や子どものことや離婚や、色々あってね。みんなもがんばって生きてきたんだねえ。いろんなこと乗り越えて、愛おしい、抱きしめたいって抱きしめたの」
 そのときは、その気持ちがわかる日が来るといいけれどまだ遠いかなって思いながら聞いていた。
 でも思いがけず直後に、釜石のごく普通に笑顔をたくさん見て。
 あの日からみんながんばって生きてきたんだね。
 愛おしいなあ。
 がんばって生きてきたんだね。
 わたしもがんばったしわたしもわたしが愛おしい。がんばるねって思えた日だった。
 その五月から一年近くが経って、明日を前にまた気持ちが落ちたけど、愛おしい気持ちを思い出せたし、また釜石にも行きたい。

 七年目のわたしには、一つ大きな変化があったのでそれをご報告して日記を終わります。
 「帰ってきた海馬が耳から駆けてゆく2」(新書館)の震災後の一ヶ月を綴った中に書いたけれど、震災の一週間後からわたしは祈るのをやめました。こんなことをするのが神様ならわたしはもう祈らないと、それ以来頑なに祈らなかった。
 文章の末尾に「祈ってます」と書くべきところにも、わたしは「願ってます」と書く。七年近くそうしてきた。
 去年の十二月に、きっかけがあって震災以来初めて祈った。
 そのときようやく、「祈りは誰かのためにあった。わたしには」と思い出せた。
 神様とはまだちゃんと仲直りはしていなくて、ぎくしゃくしてる。
 でもわたしもこうして変わっていく。

 光のある方へ一人でも多くの人が一歩ずつ行けますようにと、祈る。
 そういう七年目です。
  1. 2018/03/10(土) 14:38:30|
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