まず最初に、昨日この日記を読んでしまった方、本当にごめんなさい。
Twitterで舞台「bare」の土地を「マサチューセッツ州の」と自分で書いているのに、日記ではミシシッピ州になっていて、昨日の日記の中では無意味にアメリカ南部の話を結構してました。古い時代の、それも封建的な土地柄での出来事だなと思ったことから、自分の中でミシシッピ州に置き換えてしまったんだと思います。こういうことがあるから自分の記憶は本当に信用ならない。人は都合良く物事を置き換えることがあるのだな!という礎にせめてしてください。すみませんでした。
マサチューセッツは北部だし、ハーバード大学などがあるところで、そうだ登場人物たちは大学進学の話をしていたと思い出しました。
アメリカは南部と北部で多分大分意識が違うので、土地を間違えたから時代も勘違いしていたら怖いと思い日記を一度閉じました。
でも明日は選挙でちょっと関係ある話かなとも思い、私は観ていて80年代90年代の話だと思ったので私の主観だということで「bare」の感想とともに、人の思いやりの進化みたいなお話におつきあいいただけますと幸いです。
先日一仕事終えて、「bare」「ジャージー・ボーイズ」「エリザベート」を観劇しました。ミュージカルばかりやないかい。
それで「bare」について、私の思うところですが友人三人に続けて説明のようなことをしたので、もう日記に書こうかなと思い日記に書くよ。
公演もあと二日です。チケットも完売状態だったりするようですが、当日券も出ているようなのでご興味を持たれましたら是非シアターサンモールへ。
なんの先入観も欲しくない方はもちろん読まない方がいいです。過程のことを書いていますが、内容にも触れております。
パンフレットも買ってサイトもあちこち見たのですが時代表記が見つけられず、私は初見でしたが始まってすぐなんとなく、
「80年代か90年代初頭くらいの話かな?」
と思いました。
これはなんか、なんとなくです。若い頃そういう舞台をたくさん輸入して見せてくれたのは青井陽治だった。名作もあったし、私には共感できない作品もあった。でも日本にいては観られないものを、とにかくたくさん見せてくれた。
20世紀の先進国のトップを走っているアメリカで、マイノリティであることがどういうことかを、翻訳舞台を通してたくさん教わりました。
他にも映画「トーチソング・トリロジー」や「カーテン・コール」等が、90年代の初頭にゲイであるということは、HIVに寄ってすぐさま死をもたらせられる可能性に怯えなければならないと教えてくれた。HIVが蔓延し始めたこの頃は感染はそのまま死を意味して、感染経路や治療方法について落ちつくまではたくさんのデマも飛び交い自分も信じた記憶もあります。日本の献血ルームには「同性愛者お断り」と書かれていた。みんなまだわからなかった頃です。映画の中のニューヨークの日常は、毎週末が誰かのお葬式だった。
ゲイヘイトから、無残に殺される人々もいました。これは現在もゼロにはならない。
「bare」に戻ります。
脚本、作詞、作曲のジョン・ハートミアとデーモン・イントラバルトーロはパートナーなのかな? ハートミアがこれを書き上げたのが22歳で、アメリカ初演が2000年だということは80年代は言い過ぎなのかな。80年代を経験した人ともにある物語だという前提で語ります。確証はない。
80年代がどんな時代だったのか、わかりやすいのは映画かなと思うのですが。
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の公開が1985年です。パート2が5年後かな(この辺は適当に記憶で許して)。主人公のマーティが未来と現在を行ったり来たりする中で、2015年の未来も登場する。そこで黒人(アフリカ系アメリカ人と表記するところかもしれませんが、時代や意味合いも鑑みてこの後も黒人と表記します)市長になっている人物が、80年代ではハンバーガー屋かなんかの店員をしている。
「あんたは未来の市長だ」
「黒人が市長になれるわけないだろ」
この会話は、マーティがどれだけあり得ないような未来と現在を行き来しているかを当時わかりやすく表す象徴で、80年代は黒人の市長なんてどんだけ未来なんだよと観客に思わせる社会だった。
2016年の現在、オバマ大統領の任期が終わろうとしています。彼は自分が完全な黒人とは言えないことに苦悩さえしたことがある。それが30年後の今。
何処にも記載がみつからないので論拠がないままに、80年代か90年代くらいかなという感じで「bare」について語ります。
マサチューセッツはアメリカ国内では同性婚を認めるのがアメリカ国内でもっとも早く、2004年だったと昨日の公式ブログに書かれていました。北部なので人種間同士の結婚を禁じることなども早くにやめたことでしょう。昨日南部について触れたのは、ミシシッピ州でこの法律が撤廃されたのが1987年だということです。アメリカの古い映画や老夫婦の過去の回想には、黒人と白人の結婚を禁止され州を追われ、家族と断絶したエピソードもいくつも出てくる。
もちろん、同性愛などもってのほかと、そういう時代、そういう土地がいくつもありました。過去のように語っているけれど、これらのことはまだまだクリアにはならない。
少し前に、アメリカの都市部ではカミングアウトという概念がなくなったというツイートを見かけました。本当なら素晴らしいことです。それなら現代のニューヨークやロサンゼルスでは、ピーター(私が観たのは橋本真一)はジェイソン(私が見たのは鯨井康介)を、
「ママ、僕の愛する恋人だよ」
と紹介して、
「あらなんて素敵な人なの。いい恋人を見つけたわね」
それで終了です。
ジェイソンもピーターを家族に簡単に紹介できる。愛する人として。
もちろん現代の都市部でもそうではない家庭はいくつもあるでしょうけれど、社会が今LGBTQに対して差別をする者をむしろ軽蔑するという風潮になりつつあると、個人的には感じています。当事者じゃないので、外側からの感覚でそこは申し訳ないことです。
具体的には私は出版物の中で、「ホモ」「レズ」と書くことを控えることを求められ始めていて、理由がない限りは応じています。侮蔑語だからです。「侮蔑されている者」という意図では表記することは今後あるでしょうが、何処かで誰かが傷つく言葉であると、私が仕事をしている先では認識されています。
少なくとも、80年代90年代と現代はまるで違う。
黒人の市長もあり得ない、いくつもの州で黒人と白人の結婚は法的に禁止されている。
そして何よりアメリカ人の多くはキリスト教徒で、生まれつきそこにいる絶対神がお赦しにならない。
神に赦されない彼らの恐怖と不安は、私には学んでも学んでも寄り添うことのできないものです。
洋画が好きなので、若い頃から何度も「聖書を読み解く」「キリスト教と生きる」というような本を読んできました。「あした咲く花 -新島八重の生きた日々-」を書いたときには、会津戦争を闘った武家の娘だった八重がプロテスタントになるということが全く理解できず、本を積み上げどうして八重は神に救いを求めたのかを考え続けました。あの本を書いたときの一番の難関はそこで、私は今もそのことについてはちゃんとは理解できていないです。
でも洋画や洋ドラを観ていると、キリスト教徒にとって、
「神がお赦しにならない」
ことの負の圧力の大きさが計り知れないことはわかるし、最後に悪魔が出て来て物語を突然全て終わらせてしまったりする。
「なんなの? この悪魔が全部終わらせる話」
意味がわからんと思っていたら友人から、
「生まれたときからキリスト教徒である者には、悪魔は本当に恐ろしいものなんだ。ギャグじゃないんだよ」
そう教えられて、輸入される物語を理解したいので学んだけど、未だにきちんとした共感には至っていません。
ただ、全寮制の、神父がいてシスターがいる高校の生徒であるピーターとジェイソンにとって神がお赦しにならないことがどれだけ重いのかは、なんとかわかる。
ピーターはジェイソンを愛している。
ジェイソンも心からピーターを愛していると、私は受け取りました。
ジェイソンは、スクールカーストの頂点にいる男子です。卒業劇の「ロミオとジュリエット」では、ジェイソンがロミオをやるのが当たり前。カリスマ的存在で、かっこよくてみんなジェイソンに一目置いている。きっと幾人かはジェイソンが、足下を掬われればいいと思っている。
ジェイソンには双子の妹ナディア(私が見たのはあべみずほ)がいます。ナディアは多分、生まれつき太っているのでしょう。太っているだけで、競争社会からはもうドロップアウトです。スクールカーストの頂点にいる美人女子アイヴィ(私が見たのは増田有華、歌上手かった!)への厭味や距離は激しくあるけれど、ナディアは自分の人生はもしかしたらもうあきらめている。ジェイソンが好きで、ジェイソンが自慢の兄。両親もジェイソンのみへの期待と信頼がとても大きい。
20世紀の終わりと思われる時代に、ジェイソンが「ゲイだ」とカミングアウトすることで失うものの大きさは計り知れないと想像がつきます。
立場、家族、友人、もしかしたら大学への進学、引いては未来の何もかもをジェイソンは「ピーターを愛している」の一言で失うかもしれない。
一方、そんなに目立たないかわいらしいピーターは、母親へのカミングアウトを強く望んでいます。母親クレア(秋本奈緒美)は、ピーターが幼い頃にはもうピーターがゲイだと気づいていて、告白から逃げ続けている。夫との不和も、ピーターがゲイだからだと思っているし、それは間違いなくそうなのでしょう。それでもクレアはピーターを愛しているからピーターの告白を受け止めたいけれど、聞くのが恐ろしい。私の愛する子どもが異端者だとわかっていて愛したけれど、それでも「僕は異端者だよ」と息子の口から聞くのが怖くて堪らない。
一見ピーターは平凡でかわいらしいですが、私は強いのはピーターの方だと思います。ジェイソンほどではないけれどピーターも失うものはあるのに、「自分が自分であることを隠さない」ことを第一に望んでいる。
この時代の(昔だと決めつけているが……)ゲイを題材にした映画等は、かなりの確率でパートナー同士がカミングアウトを巡って揉めています。
「自分はカミングアウトした。親にも縁を切られた。社会からの迫害も受けている。何故あなたはしないの。僕を愛していることが恥ずかしいの」
ピーターの主張も多分、こんな感じ。
ジェイソンにはジェイソンの立場があるんだから許してやれよと思うかもしれませんが、愛している人と愛し合っていると言えない苦悩は、ピーターにとって自分を隠して騙して嘘を吐くことそのものなのかと思います。
ピーターが望むことは、タイトルのまま。
「bare」。ありのまま、裸であること。
アナと雪の女王は称賛されるのに、ピーターは簡単には歌えません。
ジェイソンの選んだ結末に、もしかしたら納得が全くいかない方がいるかもしれない。
日記を書いたのはそれでです。
そうするほかない「とき」が確かにあったと私は思う。
たくさんのジェイソン、たくさんのピーターがいて、LGBTQという言葉とその意味が認知されて、きっと20世紀よりは差別の少ない、アフリカ系の父親を持つ大統領が現れる21世紀がやってきた。
それらのことをできれば知って、「bare」は観て欲しい。
あと二日しかないけど。チケットないみたいだけど。当日券があったりなかったりするみたいだから。
極端な話、ドラマ「ルーツ」に描かれたアフリカから攫われてアメリカで奴隷となったクンタ・キンテは、部族の誇りを失うまいと本来の名前を名乗り脱走を繰り返して、足の指を切断された。
時が経ち社会は差別を許さない方向へ、確実に進化している。
それはその差別と闘ったり、闘えずに命を落とした人々が礎になってある現在で、まだ今は過程の中にいる。
もっと、不当な差別の少ない未来がきっとある。
それは自然とやって来るのではなく、今を生きている自分たちで作っていくものだったと、「bare」を観て思い出せた気がしました。
明日、7月10日は選挙です。望む未来を求めるために、たった一人自分の一票を投じられる日です。
続きから以下は、隣で観た友人が疑問に残ったと言い、私は個人的にこうなのではないかと解釈したのですが、結末に関わるネタバレになり得ると思うので畳みます。
観た方で「あれはどうした?」と思った方、私はこう思いましたがという話ですが気が向いたら開いて見てください。
一応付け加えますが、私はただの観客で「bare」制作とは縁もゆかりもございません。
あ、田村ピーターが観たかったんですが。
理由は橋本ピーターは顔が可愛すぎるからです。
それ田村くんディスってる、いやそうじゃないんだ。
橋本くんはちょっと極端にかわいいと思うんですよ。
心と心が求め合う話だと思うので、ピーターの容姿は普通よりちょっとかわいいくらいが丁度いいというのと、田村くんは私は歌が好きなので田村ピーターが観たかった。
鯨井ジェイソンには、スクールカーストの頂点にいて失うものが大きいけれど、それでもピーターを愛しているという強い説得力を感じました。
あとね、誤解を恐れずに言いたい。
何もかもが安いです。
でも安いと思って観るといいと思うし、キャストたちもまだ自分たちは安いと思って明日を頑張って欲しい。
それを育てているのであろう原田優一さんのマリウスはとても高い。
お金の話ではないけど、お金で考えてくれてもいいです。
私はその安さと若さが爆発するのを堪能しました。
貴重な時間でした。
以下が続くです。
そんでアイヴィはどうなったのと友人が言いました。
私はこう思ったという話です。
ずっとアイヴィを妬み憎んでさえ見えた、ジェイソンの妹のナディアが最後、アイヴィと手を繋ぎました。
アイヴィのことは、どうなるかはともかくジェイソンの家族が責任を持つということなのではと解釈しました。とても良いシーンだったと思います。
私がもっとも良かったところは、ピーターの懺悔もジェイソンの懺悔も聞こえないふりをし続けた神父に、
「あなたを赦します」
そうピーターが告げるところです。
先日の黒人射殺のように、殺されたら殺すことでは、前には進めない。
赦すことはとても難しいことですが。
それは限りない強さだと思いました。
- 2016/07/09(土) 14:15:35|
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