すみません少し自分の話から始まりますが、具体的にこうしたいというところにたどり着くのでよかったら最後まで読んでやってください。
九州方面の大きな地震が起こって、二週間が経ちました。
二日前に地元友人と話しました。
彼女は二週間前に地震があってから、Twitterを見るのをやめたと言いました。
理由は、友達が「震災のとき福島の人ずっと怒ってたよね。県民性かな」とツイートしたのを目にしてTwitterが見られなくなったとのことでした。
たくさんの方が、何もかもを置いて町ごと突然生活を奪われた、原発による人災があった土地です。友人は震災発生当時には仕事の関係で、何も持たない子どもが凍える日に裸足で放射能検査を戸外で受けなければならないのを見るという日々を過ごしていました。
その何気ない気持ちで呟かれた言葉に彼女が、ネットそのものに怯えるのは私には当然に思えました。
私はと言えば、四月二十一日にこのようなツイートをしました。
『叔母が、 「雀が帰った」 と言う。震災以来初めて今年庭に雀が帰ってきたと言う。
「私の仕事場には去年燕が帰ってきたよ」
と言うと、
「やっと安心な土地になったのかな」
と叔母が笑った。 原発のある福島県の五年目です。 九州にはもっと早く復興が来ると思う。 どうか絶望しないで』
他にこのときには言葉が見つからなくて、私に言える精一杯でした。
たった一人、多分通りすがりの方に、
「東北とか福島の人ってすぐ絶望するよね!」
と言われました。
震災関連死、行方不明者まで含めると現在では28000人が失われた震災のことを言ってるのかなこの人はと、情けないけど私は私で何を言うのも怖くなってしまいました。
外側からだけでなく、被災地の中にも温度差はあります。
五年経って、「もう復興は終わった」と感じる方と、身近な方を亡くした悲しみや生活をなくした辛さから前に進めない方とで、被災地も様々です。
震災発生当時、私と友人の間にさえも多少の温度差はありました。
友人は無関心が一番辛いと、そのことに胸を痛めていました。
私はそこはそうでもなかったので、友人の気持ちを聞くことしかできませんでした。
地震発生から二週間経った九州方面も、そうなっていくのかなと想像します。
自分だけがまだ辛いのかな、自分だけがまだ震災のことから逃れられないのかなと、苦しむ方々がきっともしかしたら今もいらっしゃるのかなと想像しました。
三月に日記に書きましたが、痛みや悲しみに寄り添えず想像が及ばないのなら、そういう方はたった一つできることがあると私は思います。
沈黙して欲しい。
そして情けない臆病さで、できることもないと沈黙していた私自身は、一つできるかなということに気づいたのでそれを実行できたらと考えています。
私は被災地在住と言っても、ライフラインも生きていたし、避難所生活もしませんでした。
一月近く、道路、鉄道が寸断された中で余震と物流に不安を抱えながら過ごした程度の被災者です。
でもやはりその一月の怖さは覚えているし、今も言葉にするのを躊躇う喪失もありました。
それは専門家に尋ねていただかなくてはならないということも多々あるだろうとは思うのですが、震災を経験した者として、答えられる限りのことに答えていこうと思います。
怖い、悲しい、不安、そういった負の気持ちは閉じこめないで欲しい。
お彼岸に、津波に全てがさらわれた宮城県の閖上地区を訪ねました。命がたくさん失われた土地です。
閖上地区の子どもの精神的なケアとして、震災当時の子どもたちが見てしまった光景をジオラマのようなもので子どもたち自身に再現してもらって、それらを言葉にして吐き出すということが行われたという映像を見ました。
その映像の前にはたまたま、今は閖上地区に住めなくなった閖上小学校出身の少年がいました。歯をくいしばってまっすぐ、当時の映像を見ていました。
理解されないという怖さから、悲しみや怖さを誰にも言えずにいることは本当に心によくない。
身近に分け合える方がいたら分け合って欲しいし、どうしても誰にも言えないなら、よかったら私に聞かせてください。
聞くことしかできないことも、たくさんあるとは思います。
「地震酔い辛いよ。余震怖いよ」
そういうことでも、誰かに聞いて欲しいときに相手が見つからなかったら、私が聞きます。
具体的に震災を経験した者としてアドバイスできることがあればさせてください。
Twitterでリプしてくださってもいいし、私のホームページのメールフォームを使ってくださってもかまいません。
可能な限り、一つ一つお返事をしていくつもりです。
私も自分の日常を保ちながらのことになるので、ゆっくりゆっくりのことになってしまうとは思いますが、問いかけがなくなるまで続けられたらと思います。
よろしくお願いしますね。
- 2016/04/29(金) 07:42:28|
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