お彼岸にゼミの友人が会津に来てくれて、一緒にお墓参りして温泉に入りながら、
「あの学校にして良かったなあ。学生時代はあのときが一番楽しかった」
「私も」
なんて幸せな話もできて、翌日の朝から一泊二日で宮城旅行に行きました。
「会津に来るなら、宮城に足を伸ばさない?」
そう誘ったのは私だったけど、友人の人脈や判断力に助けられまくって、とても充実した宮城旅行になりました。
しかし決めたのがお彼岸に近かったからなのか、宿は一択でした。シングルは一つもなく、ツインというか、和室に布団を敷いて寝るホテル一択。仙台は訪問者に対してホテルが少ないといつも思うのですが、今回は一万人が訪れる学会と被ったことが後に判明しました。決まると一年前には宿はほとんど押さえられてしまうそうです。旅行者は要注意です。
以下、青字には全てリンクが貼ってあります。
神奈川から来た友人は前日うちに泊まって、二人で昼に着くように仙台に向かいました。
3時には
「仙台うみの杜水族館」に行く予定なので、到着してすぐに仙台駅1階の「北辰鮨」に並ぶ。私と友人は魚がとにかく好きで、私はここのカウンターが好きです。ネタを見ながら選べるし、たまに愉快な人が隣に座ったりする。
連休なのに思ったより早く入店できましたが、カウンターは無理だったのでテーブル席で食べました。
いつでも美味しい。
みんな大好き仙台駅1階「ずんだ茶寮」で休憩。
ここは「ずんだシェイク」が人気です。
私は夏の「ずんだかき氷」が好きだ。あんまり甘くない。

仙台駅からJR仙石線で中野栄駅に移動。
「徒歩15分だから水族館まで歩こう」
友人は言ったけれど、私は知っていた。
「仙台の徒歩15分を舐めたらあかんで」
生まれもつかぬ関西人になって、案の定30分近く歩く。
しかし宮城県は車社会ながらも、歩道がとても歩きやすく整備されています。平地だし、歩くのが苦でない人は歩いてもいいと思う。
そして一時間半くらい掛けて、水族館を堪能しました。
水族館は魚好きの友人の希望だったのですが、私も久しぶりの水族館がとても楽しみでした。
「仙台うみの杜水族館」はできてまだ半年で、発展途上です。震災復興関連の一環でもあるし、津波でたくさんの生物の命を失ってしまった88年の歴史を持つマリンピア松島水族館の後続施設でもあります。松島水族館から魚も人も移っているし、新しい試みもある。
私はこの水族館が大好きだなあと思ったのが、入り口からしばらくが目の前の三陸の海そのものなんです。
お出迎えはホヤ。
「さばくの意外と簡単なんだよ」
友人に言うと、
「さばいて食べられるホヤになかなか巡り会えない」
残念そうに言われて、
「そりゃそうだな」
大きな水槽の前に行くと、二万尾の鰯が群れを成していてまさに三陸の生物が泳いでいる。
そこからは私たちも周囲の人々も、
「かわいい」
「美味しそう」
「きれい」
「鍋にしたい」
「愛嬌があるね」
「刺身で食べたい」
かわいいと食べたいのアンビバレンツ。
そこにこの海があるんだなあと思いながら、歩きました。

イルカショーはすごい人で見られなかったんだけど、私と友人は最後に思わぬ穴場に気づいたのでそっと教えます。
いつでもこの光景に出会えるとは限らないけれど、ほとんど人のいないイルカの前に5時半頃座ると、飼育員の方々が掃除を始めました。
恐らくなんですが飼育員の方々がいるので、イルカが遊んで欲しくて大騒ぎ。
観客はいないので、見たい放題見ました。
隣でイルカ大好き幼女がずっと騒いでいて、
「かわいい! かわいいねイルカ!」
とお母さんとお姉さんに訴えていたのですが、お姉さんはノーリアクション。
「連れて帰ってうちで飼いたい!」
そう幼女が言ったときだけお姉さんは、
「無理!」
と言いました。
微笑ましかった。

この水族館では事前申し込みで、「バックヤードツアー」というものが見られます。水族館の裏側を見せてもらって、説明していただけます。
私の友人は私と同じ国文クラスなのですが、もう15年以上ダイビングと魚の研究のボランティアをしています。
ボランティアと言っても、撮影した写真が図録に載ったりと、おまえの本職はなんなんだという活躍ぶり。
今回もボランティア先の先生のご紹介で、「バックヤードツアー」のときに水族館の立ち上げスタッフさんにご案内いただけました。
おお贔屓じゃんと思わないで。友人はずっと魚の標本作りなどのボランティアで続けていて、これはちょっとしたご褒美です。継続は力なりの、私はおこぼれにあずかって、わくわくとバックヤードツアーに参加しました。
私は魚が好きだけど、隣に立つ友人が水槽の魚の名前をスラスラ言うのに驚くばかりの素人です。
このツアー、何が楽しかったって、案内してくださった方と友人のコアすぎる魚好きのやり取りがおもしろかった。
時々二人が何言ってるのかわからない。
魚にあげるごはんを作る部屋に入ると、友人は颯爽とシンクを覗きに行きました。
案内の方は、
「おお、行きますねえ」
と、とても嬉しそう。
この人達がおもしろいわと、私は後を追っかけていました。
ツアーも堪能してもう一度鰯を見て、
「鰯食べたいねえ」
と仙台駅に戻る。
私は仙台に来たときは、「三日月」か「Hey!周平」に行きたい。前者はワイン、後者は日本酒。
今回は「Hey!周平」で日本酒を堪能しました。
どちらのお店も何を食べても美味しいです。

二日目、朝一で牛タンを食べようかと歩いていると、昨日も入った「北辰鮨」が開店直後のせいか人が並んでいない。
友人がじっと、「北辰鮨」を見ている。
「牛タンを食べようと言ったのは仙台に来たからで……私も今日も鮨でも全く構わないが」
「じゃあ鮨にしよう」
真っ直ぐ欲望に突き進む友人と、この日はカウンター席に座る。
お隣に、お彼岸だからお墓参りに行くという老婦人が座っていてお話をしました。
「最後の海外旅行はミャンマー。身内が亡くなったの」
ここのカウンターでは今までも、色んな方とお話しさせてもらいました。
なんというか、素敵だなと思う方に出会うことが多い。
老婦人の向こうに、私たちは同い年くらいの外国人男性がいました。老婦人が最初、その男性と英語で話していました。
「学生時代を東北大で過ごして、でも僕はマレーシア人で、妻がオランダ人なので今はオランダ国籍」
国の名前がたくさん出て来たので、合っているかよくわからない。
「あなたは何処から?」
「私は福島県です」
「福島! 大丈夫なのですか!?」
とても心配してくださいました。
「福島県は日本で3番目に広い都道府県です。私の住んでいる会津は原発からはとても遠い。むしろ宮城県や栃木県の海沿いの方の方が不安かと思います。地図の上の線で放射能が途切れてくれるわけではないので」
「本当にそうね」
老婦人が溜息を吐いていました。
カウンター席の人々と別れて、私と友人は今回の旅の大きな目的である、
「語り部タクシー」に乗るべく乗り場に向かいました。
この「語り部タクシー」は友人が見つけてくれたものです。
「海辺に行ってみたいんだけど。きっと仙台駅と全然違うと思うんだ」
友人に告げると、
「私も行きたいと思ってた」
そう即答してくれました。
私はレンタカーを借りて自力で行こうかと考えたのですが友人が、
「多分立ち入り禁止地区もあるし、海に近づけるかわからないし。震災前の風景がわからないから、こういうのがある」
と「語り部タクシー」を見つけてきてくれました。
四人までなら、料金は一台いくらで均一です。
三時間前後でないと意味がないと、行ったらわかりました。海まで仙台駅から片道40分以上掛かるので、二時間にすると行って帰って終わってしまう。
また、「語り部運転手」の研修を受けている方は宮城に200人いるそうです。
選ぶことはできないかと思いますが、私たちが当たった運転手さんが言うには、車で一通り回って降りずに終わってしまう方もいらっしゃるそうです。
行く前に電話などで、何処に行きたいか、どんな話が聞きたいかを明確にしておくとそれに合った運転手さんに担当していただけるかもしれません。
私と友人は3時間コースで、16000円強。
当たった運転手さんは、多分、何かしら海辺に特別な感情を持った方でした。
それがいいことなのか悪いことなのかはわかりません。
私は、
「この方はそう思うのだな」
と自分に確認しながらお話を聞きました。
碑のある場所ではお線香を用意してくださって、それがとてもありがたかったです。
震災当時の様子を伺いながら、閖上(ゆりあげ)地区に行きました。
千人以上の方が犠牲になった場所です。
朝市が立ち始めていましたが、ほぼ更地でした。
ここには慰霊碑があり、お彼岸ということでお花を持った方々か何人かいらっしゃいました。
「閖上の記憶」というプレハブの建物があります。
中に入ると奥で、10分ほどの映像を流してくださいました。
おばあさんが冒頭で、
「津波や、悲鳴の映像が流れます。辛かったら下を向いてください」
それらの映像は、頭の2分程でした。
そこから、閖上地区の子ども達がどんなケアを受けて心を再生していったのか映像とともに説明がされました。
秘密にして辛い思いを閉じ込めずに、当日のジオラマや粘土細工を作って、その日のことを語り合うというケアがされたそうです。専門のケアの方がいらしたのかなと思いました。
映像の流れる暗い部屋には、私と友人の他に、ロードバイクに乗るための服装をした少年がいました。
津波の映像も悲鳴も、彼が何か歯を食いしばって見ているのが、気に掛かりました。
少年は、閖上小学校の生徒だったそうです。
今はここには住めないので、遠くから自転車で来たそうです。
彼らが造ったのだろう、ジオラマを見ました。
閖上中学校では、十四名の生徒が犠牲になりました。
彼らの遺品が、置かれていました。
随分愉快な手書きのTシャツが泥に汚れて、持ち主はなく。
外に出ると、黒い碑があります。
十四名の名前が刻まれた、小さな碑です。
たくさん触ってもらえるようにと、角が丸く丸く作られています。
たくさん触って、手をあわせました。
言葉は何もなく、普段ほとんど泣くことのない友人が黙っているので、私も彼女を見ないで、碑を見ていました。
閖上地区では、三千本の桜を植えようという活動があるそうです。
「笑おう、いつの日か。集おう、いつの日か。三千本の桜の下で」
そんなポスターを見ました。
桜の里親を募集しているそうです。
いつか桜の下でまた笑顔になれる日を願って、閖上を後にしました。

荒浜地区に移動すると、閖上と同じ海沿いのはずなのに随分と荒れ果てたままでした。
「市が違うんです。行政が違うので、ここは危険地域に指定されています。帰りたい人たちが戦っていますが、帰れないでしょう。もう住めない土地です」
運転手さんに説明を受けました。
みんなが集う場所は放火されてしまい、今は24時間監視カメラが設置されています。
帰りたい人、新しい土地に移りたい人、市政と、様々な思いがあることが見てとれました。
最近になって、やっとわかったような気がしている気持ちがあるのですが。
震災の直後に、
「家が流されるのは二度目だけれど、またここに帰りたい」
というおばあさんをテレビで見ました。
そのときは正直、何故、と思った。
私ならもう、怖くて海辺には住めない。
でも最近、なんとなくですが、帰りたい人の気持ちは当たり前だと思うようになった。
生まれた土地、生きていた土地、親族や友人、自分たちの暮らしや歴史があった土地に帰りたいのは当然の感情だと、今は思います。
海には防潮堤が作られていました。
防潮堤に、黒いジャケットを着た年輩の男性が座って海を見ていました。
何度も彼を見ましたが、動くこともなくずっと海を見ていました。
ここには、犠牲になった方々のお名前と年齢が刻まれた大きな碑がありました。
幼い少女の名前も刻まれていました。
津波が来るまでに時間があったので、一度帰宅したり、迎えに行ったり、家族を探したり、そういったことが仇になったという話でした。
「津波が来たら必ず自分が逃げるとみんなが決める。そうすることで、失われないで済むかもしれない家族の命も助かる」
それはあの津波で得た、教訓の一つかもしれません。
「この辺は、津波は1メートルなんです。助かると思うでしょう?」
海から4キロに渡った津波のことを、運転手さんは語りました。
「でも速度が速すぎるし、瓦礫も一緒に流れて来ました。プロパンガスが噴出してあちこちで火が出て、1メートルでも助からないです」
頷いて、手をあわせて、仙台駅方面に向かいました。
途中「津波タワー」というものを見ました。
震災後に作られた、津波が来た時に住民が上れる駐車場のような形をしたタワーです。
「いくらだと思いますか?」
運転手さんに尋ねられました。
「想像もつかないですけど……億単位ですか?」
「2億だそうです。前例がないので、相場がわかりませんよね。うちなら1億でやるのにという建設会社の方を乗せたことがあります」
どうとも判断がつかない話で、なんとも言えない気持ちで津波タワーを眺めました。

仙台駅に近づいて、更地から街へ帰る時間の短さに戸惑いました。
現実に帰ってきていると思いそうになって、違う、海辺も等しく現実だと気づきました。
「とても大切な旅になった。ありがとう」
新幹線に乗る友人と別れて、私は新しくできた仙台駅エスパル東館に入りました。
百円で試飲できる日本酒や、あたたかい笹かまぼこを食べながら日本酒が飲めるきれいなカウンター。
人に溢れて活気があって、エスパルはとてもきれいでした。
これもまた、宮城の今。宮城の現実。

閖上や荒浜から来た私には戸惑いもあったけれど、もちろん今を謳歌することは全ての人に与えられた当たり前のことで、私も日々謳歌している。かまぼこも食べて、日本酒も呑んだよ。ちゃんとエスパルも楽しんだ。
海辺には、行って良かったです。
人気の少ない閖上の黒い丸い碑や、自転車で来た歯を食いしばる少年、防潮堤の上の男性、荒れ果てた荒浜にも同じ時間が流れていました。
これは誰の代わりにでもなく、見てきた私からの言葉です。
どうか忘れないで。
- 2016/04/22(金) 09:40:37|
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