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菅野彰

菅野彰の日記です

「アイルランド・フェスタと夜」

「小さな君の、腕に抱かれて」(新書館ディアプラス文庫)に登場する、峰崎俊司と雪森巴の十年後の一幕です。
 特典ペーパー「さよならの行方」で書かせていただいたアイルランド・フェスタから十年後になりますが、ペーパーを読んでいなくても本編を読んでいただいていればわかる内容にはなっているかと思います。
 そもそも本編を読んでいない方は意味がわからないかもしれませんが、短いので良かったら慰みに読んでやってください。

 私はWEBで小説を公開するのが多分初めてで、担当さんに仕事外のことをさせて申し訳なかったのですが目を通していただきました。
 いつの間にか、担当さんが読んでいない小説を公開することに怯える小心な作家に育っておりました。
 本当にですね、小説をパスワードもつけずにWEBに置くのは私には全裸気分なんですが、みなさまに意見を募ったところ、
「全裸になったらいいと思います」
 と言っていただき、まっぱになります。
 小説の方がね、私はなんか恥ずかしいんだよね。
 何故初めてWEBで小説を公開することになったかというと、何処にも行き場のない話を不意に書きたくなって書いてしまったからです。
 おつきあいいただけましたら幸いです。



「アイルランド・フェスタと夜」



 あれは確か十年前の初夏だった。
 緑のまだ若い、都心にしては大きな公園で盛大に催されたアイルランド・フェスタのことを、峰崎俊司は思い出していた。
 その祭は毎年同じ場所で催されるもので、アイルランド民謡に興味があって峰崎はどんなに忙しいときでも時間を空けて公園に寄っていた。今もその習慣は途絶えていないので、アイルランド・フェスタで誰かの歌を聴くのは毎年のことだが、たいてい峰崎は一人だった。
 もっとも、一人でいたいのは何もアイルランド・フェスタだけのことではない。
 だが十年前の公園では、会うのは二度目になる少女と他者と交わすより多くの言葉をやり取りした。
「ねえ。くだらないつまらないパーティで、ずっと誰かしらが主賓を探していて気の毒よ」
 高層ホテルの最上階にあるラウンジでのパーティを抜けて、平時は立ち入り禁止の非常階段でタキシードの襟元を完全に崩していた峰崎は、聞き覚えのある女の声を聞いても窓辺に座って返事をしなかった。
 右手にネクタイを掴んだまま、見慣れた都会の何処までも続くかに見える夜景の果てを窓から探した。
 きっとこの広大な灯りの中に、十年前少女と言葉を交わした公園もある。そんなに遠くないことは、峰崎も知っている。
「だらしないわね。そんなに質のいいタキシードのタイを外すなんて、服が泣くわ」
 罵りながら自分の傍らに立った女を、仕方がないので峰崎は見た。
 黒いシンプルなデザインのドレスを纏った彼女の方が、余程質のいいものを選んでいることが一目でわかる。シンプルだけれど、同じものは見つけられない。デザインも生地も、特別な女のために特別に誰かが誂えたものだ。
 女というには、峰崎にはまだ彼女は本当は若過ぎる。
 だが人間としては、いつからそうして一人前の顔をしていたのか気づかないで、今日を迎えた。
 師走も残り少ない、クリスマスも終わった音楽祭の日だ。
「わざわざ主賓を探しに来たのか。ご丁寧に」
 今日、峰崎は日本の音楽界で新たに作られた賞で、最も栄誉のある大賞を受賞した。いつものことだ。毎年何かしらを受賞するし、既に殿堂入りしているものもいくつもある。どの賞にも峰崎は欠片の興味もなかったが、そこに音楽の賞があるのなら受賞しないことには全く納得しない。
 二十年近く、峰崎はトップの成績で業界を走ってきた。
 もし自分に賞をやらないという者がいるなら、逆さにして理由を追及したいのが本心だ。
「つまらないのでパーティ会場を抜けて私の居場所を探して非常階段を昇ったら、たまたまあなたがいたのよ」
 耳にすると、わずかに覚えている九歳のときとさして変わらないように思える少し高い声を、峰崎に聞かせているのは雪森巴だった。
「立ち入り禁止の札が見えなかったのか?」
「あなたにも見えないんでしょうね」
「ここは俺専用だ。何処かよそを当たってくれ」
 十年前、大きな公園で他愛のない会話をした少女を、軽口ではなく峰崎は今、本気で遠ざけたい。
 パーティ会場を適当に抜け出すのはいつものことだが、今日そのざわめきを置いて来た一番の理由は、十九歳になった巴と同じ場所にいたくなかったからだった。
「ここが一番見晴らしがいいわ。あなたはもう充分堪能したでしょう。その夜景」
 言外に峰崎に退けと言って、巴は引き下がろうとしない。
 九歳の頃から彼女の本質が何も変わっていないと今更知って、峰崎は苦笑した。
「あの辺りに」
 夜景の灯りの続く中、少しだけ黒く丸い暗がりがあるのを指差す。
「公園がある」
 呟いた峰崎に、巴は何も答えなかった。
「アイルランド・フェスタのことを思い出してた」
 忘れてはいないだろうと笑いながら、峰崎が巴を振り返る。
 意外そうな顔をして、巴も峰崎を見た。
「ついこの間まで、おくびにも出さなかったくせに」
 自分が十年前に放った言葉を、それでもどうやら巴はしっかりと覚えている。
 わたしを子ども呼ばわりして軽んじたことを、あなたは十年も経たずに後悔するでしょう。アーティスト峰崎俊司を完膚なきまでに殺すのはわたし、雪森巴よ! 覚えておくがいいわ。
 幼いとしか言い様のなかった小学生が、おもしろいことを言うものだと峰崎はそのとき笑っていた。
 あなたは思い出すでしょうね。自分がアーティストとして完全に死す日に、このアイルランドフェスタのこと。
 その少女の言葉を律儀に自分が覚えていたことが、むしろ峰崎には不思議でならない。
「正直、一年前に何かの音楽祭で君が、あなたを完全に抹殺する雪森巴よと間抜けな暗殺者みたいな自己紹介したときにさえも、悪いが全く思い出せなかった」
 酷く不満そうに、巴は峰崎の言葉を聞いていた。
 そのふて腐れた顔は、髪が長く伸びてしなやかな肩に掛かろうとも、九つのときと峰崎には何が変わるでもない。
「着々と君が俺を嬲り殺すので」
 こんなことを言いたくないと思っていたが、声にしたら峰崎は少し、楽になったような気持ちがした。
「本当は最近、時々あのアイルランド・フェスタのことを思い出していた。気持ちのいい歌を歌う男がいたな」
 幼い巴に会ったのは、アイルランド民謡を歌うアイルランド人の前だった。
 峰崎も巴も、その男の歌を初めから最後まで少し離れたところに立って聴いていた。
「ええ。あなたは一万円札を、私は百円玉を、箱に入れたわ」
 ぼんやりと思い出している峰崎よりも巴は、そのときのことをしっかりと覚えているようだ。
 子どもの記憶は随分確かだなと言いそうになったが、口に出す気力が峰崎にはない。
「経済的弱者であることが屈辱だった」
「経済的弱者というか、君は単なる小学生だっただけだ。母親は確かマダム風だったぞ。藝大の音楽部に、経済的弱者が進学できるとは思えないが」
 もちろん巴が、いつでも自身の立場について物思う者だったことくらいは、覚えがなかったとしても峰崎にもわかる。
 つまらない言葉を返したと、また、窓の外を向いて峰崎は公園の暗がりを探した。
 よくよくあの日のことを考えてみても、やはり峰崎は巴ほどには細かくは覚えていない。普通の子どもとはかなり違う少女が、何か喚いていた。
 少し、厄介だと思った。
 子どもだけれど、自分に何処か似ているような気がして、それが厄介だと思ったことだけははっきりと覚えている。
「君の音楽をあのとき聴いておけばもう少し身構えていただろうにと、それだけは後悔したな。今日」
 九つの少女で、そうだ、アルトリコーダーを持っていた。
 何か奏でてみろと言えば良かったと、峰崎は溜息を吐いた。
「俺は後悔が嫌いだ。滅多にしない」
 嫌いな感情に囚われていることを疎ましく思い、大きく峰崎が巴を振り返る。
「藝大に入学して、すぐにデビューしたのか?」
 彼女が同業者として自分のユニットを組んで目の前に現れたのは一年前だったはずだと、峰崎は巴の歳を数えた。
「作曲の腕は、高校時代にはもう注目されていたわ。私の楽器たちが揃うのを待っていたのよ」
 そうして巴が言う通り、巴の楽器が見事に揃ったのを峰崎は見た。
 否、聴いた。
 油断していて、腕に掴んでいたギターを取り落としそうになった。
「いい楽器だった」
 滅多に自分が他人を褒めたりしないことぐらい、巴も知っている筈だから光栄に思うがいいと、言葉を投げる。
「ありがとう」
 素直に巴は、それだけは受け取った。
「でも、大賞はあなたが取ったわ。私は納得していないけど」
 不満げな彼女と同じ強い声が、自分にもまだ出せたならと、羨望が胸の内にあることを峰崎は認めざるを得ない。
「納得しないだろうな」
 前にいつ吸ったのかも思い出せない、昔戯れに少し吸い込んだだけの煙草が欲しいと思った。良くないことが多いと思って、やめたつもりだった。酒も呑めないわけではないが、無駄だと思い峰崎はあまり口にしない。
「俺もしていない」
 酒の一杯も、会場から持ってくれば良かったと後悔した。
 そうか人は気を紛らわしたいから無駄なことをするのかと、今更それを峰崎が知る。
「俺は音楽が好きだから、いつでも音楽のそばにいたかった」
 この娘に教えてやることはないと思いもしたが、礼儀だろうと口を開いた。
「時代が変わって流行が動けば、それに合わせて求められるものを提供する技量もあるし、努力も怠らなかった。いつでもだ」
「驚いたことにあなたは二十年も業界のトップにいるわよ。いつ死ぬの」
 遠慮のない言葉を、峰崎がプロになろうかという頃に生まれたはずの巴に投げつけられる。
 笑うことしか、峰崎にはできなかった。
「大丈夫だ。さっき死んだよ」
 普段から笑うことは少ないけれど、その少ない中でもこんな風に自然と笑んでしまったのはいつ以来か思い出せもしない。
「君の作った歌を聴いて」
 悲しいけれど峰崎は、何か、安心していた。
「大丈夫だ。ちゃんと死んだ」
 言葉を紡ぎながら、何に安堵しているのだろうとぼんやりと考える。
「ずっと音楽が好きだから、音楽のそばを離れない努力をしてきたつもりだった」
 理由のわからない安らぎの生まれる場所を、ゆっくりと峰崎は探した。
「もう俺が愛した音はとうに見えてなかったことに」
 段々と、その源に爪先が近付いて行く。
「愛すべき音に随分久しぶりに再会して、もう俺のそばに音楽はいないと突然知らされて」
 安堵の湧く水源の前に、峰崎は立った。
「死んだよ」
 声に出したら、やはり、悲しみや悔しさよりも安らぎに包まれた。
 もういいんだと、胸のうちに呟く。
 いつの間にか自分を愛さなくなった音楽の傍らに無理にしがみつくことをしなくても、大丈夫だ、音楽は何処にでもあると笑うことができた。
「幸いかどうかはしらんが、金だけはある。イギリス辺りからライブハウスやコンサートホールでも歩いて余生を過ごすさ」
 随分長い余生は持て余すことになりそうだが、足を伸ばして本場のアイルランド民謡も聴こうかと思ったら、楽しみにも思える。
 一息に歳を取った気持ちは、否めなかった。
 瑞々しい肌をした巴にはまるで自分は老人のように映るだろうと思いながら、少し、峰崎は目を伏せた。
「冗談でしょう!?」
 不意に、甲高い声が峰崎の耳を貫く。
「まだトップはあなたよ! ちゃんとわかりやすく死んでよ! 私に叩きのめされてから日本を出て行ってよ!! 許さないわ私あなたを殺すために生きて来たのよ!」
 無意識に右耳を塞いで、生業のために耳を守ろうとする癖が今日抜けるわけではないと、峰崎は虚しく手を下ろした。
 いきり立つ巴の姿は、シックな黒いドレスだけれどやはり九つのときと何も変わらないように峰崎には見える。
「……アルトリコーダーで?」
 ランドセルを背負ってそこにアルトリコーダーが差してあったと思い出して、峰崎は噴き出しそうになった。
 おかしな色のランドセルだったので、その色を覚えている。レンガ色というのか随分個性的な色で、そんな色のランドセルがあるのかと思ったので記憶に残っていた。
「覚えてるじゃないの」
 わめくのを、巴はやめた。
 声のトーンを落とされると、十年前の少女は鳴りを潜める。
「君が作った歌が、耳について離れない。もう作曲なんて無理だ」
 嘘ではないとその証に、さっき聴いた巴の作った歌を、小さく峰崎は口ずさんだ。
「音痴ね」
 聴いたままの感想を添えて、巴が顔を顰める。
「歌えるならとっくに自分で歌ってる」
 今更何を言うかと、峰崎は肩を竦めた。
「私もよ」
「歌ってみろ」
 言われればこうして声を聴くだけでも、巴の声が歌に向かないことが峰崎にもわかる。
 酷く不機嫌そうな顔をして、それでも巴は唇を開いた。
 聴いていると自分の作った曲を、細い声が奏でている。
「音痴だな」
「ええ、音痴なのよ。だから楽器を探しているの。いつでも探してる。一年前に揃うまでは、目をつけた端からあなたが攫って行ったわ」
「安心しろ。今後は誰もが、君の作る歌を歌いたがる」
 自分の時代は終わった。考えてみれば随分長過ぎた。
 滞る水は濁るだけだ。音楽のために、流れて行かなければいけなかったのにそのときを見誤ったことを、峰崎はまた悔いた。
「私が書いたのは、『主よ人の望みの喜びよ』の編曲よ。ヨハン・ゼバスティアン・バッハのね。教会カンタータを、強くしてオラトリオ感を出したに過ぎないわ」
「教会カンタータに、オラトリオか。さすが藝大生だな。俺にはその二つの違いが未だにわからないが」
「オリジナルじゃないって言ってるのよ」
 そんなことはどうでもいいと、巴が峰崎の言葉を切る。
「まず私たちはこの作者を殺さないといけないわ」
 ヨハン・ゼバスティアン・バッハを殺すと、巴は言い出した。
 相変わらず物騒な娘だと、さずかの峰崎も呆れ返る。
「私たち、か」
 バッハはもう死んでると言い掛けて、巴の言う意味と違うことはわかっているので口を閉じた。
 けれどそんな強い気持ちも、持っていた頃は確かにあったと峰崎も覚えているのに、今はもう遠い。
「一番最初に魂が震えた音楽よ。超えたい」
 もしかしたら巴は超えることもできるのだろうと、ただ、峰崎は彼女の言葉を聞いた。
「羨望のまなざしで見ないでよ! 情けないわね!!」
 忌々しげに叫ぶ巴は、何か焦って見える。
「言いたくはないが、俺は君の父親でもおかしくない歳だ。労われ」
 歳のことなど知ったことではないという姿勢で峰崎自身生きて来たが、巴の言い様にはそんな凡庸な言葉の一つも漏らしたくなった。
「定年した日に労わるわよ」
 上がったり下がったりする巴の声が、自分のそばから離れようとしない。
「何故」
 同業者になってからは、再会のとき以来挨拶さえまともにしないで来た。
「俺にやさしくする。憐れか」
 憐れまれると、惨めさが身につきそうだと溜息が零れる。
「いつ私があなたにやさしくしたと言うの」
「やさしいよ」
 励まされていることには、やり切れなさを感じるしか峰崎もすべがなかった。
「俺に惚れたのか。激しく困るんだが。俺は大人の女が好きだ、峰不二子みたいな」
「馬鹿じゃないの。漫画の登場人物じゃないの。セル画でしょう?」
 あっちに行けと手を振った峰崎に、巴はまだ応じない。
「私は人間よ」
 そんな風に言われるとまるで人間ではないような気がすると巴を改めて見て、峰崎は彼女が少女ではないとようやく覚え始めた。
「あなたがもう少しはいないと私、殺意がもたらすモチベーションを失うので困るわ」
「もう少しでいいのか」
「引退したら何処にでも行くといいわ」
 まだ、峰崎はアーティストとして絶頂期を降りてはいない。
 ここでいなくなれば、伝説の一つも残せる。伝説になど峰崎は興味はないが、このまま墜ちて行く自分とつきあうのは億劫だ。
「どうしてイギリスに?」
 居残る気配がしないからなのか、巴はまだ、峰崎を引き留めた。
「サイモン & ガーファンクルが好きだ。父親がよくカーステで掛けていた」
 一番最初に魂が震えたという巴の言葉を借りるなら自分には彼らの歌がそうだったと、思い出す。
「サイモン & ガーファンクルはアメリカのユニットよね」
「最初に聴いた曲が」
 中世イギリスの吟遊詩人が歌い継いだ歌だったと、説明するのを峰崎は面倒に思った。
「スカボロフェアに行くのなら」
 小さく、その歌を歌う。
 旋律は、音符になっていつもと変わらずに峰崎の目の前を泳いだ。
 その音符の羅列に引きずられるように、音楽への尽きない未練が自然と、心の底から湧き出る。
「パセリ、セージ、ローズマリーそしてタイム」
 続きを、最後まで峰崎は歌った。
「兵士になった子どもは、銃を磨く」
 違う旋律を、巴が重ねてくる。元々は吟遊詩人の歌った歌の、「詠唱」と呼ばれる部分の詞はポール・サイモンが書いた。
 悪霊となってしまった兵士に、「パセリ、セージ、ローズマリーそしてタイム」と、立ち去るように呪文を歌う形になる。
 ベトナム戦争時の反戦歌だと言われていた。
 きれいで静かな歌なのに何故と、少年の頃峰崎は思った。
「音痴だな」
 詠唱部分をきちんと歌った巴に、きちんと歌えばいいというものではないと、峰崎は顔を顰めた。
「あなたもね」
「だが悪くない」
 本物が聴きたくなるところがとは、峰崎は言葉にはしない。
 再始動の噂は出ては消え出ては消え、アート・ガーファンクルは喉を痛めて中音域が出なくなってしまったとポール・サイモンが告白している。
 その話を聞いたときの絶望を、今初めて聞いたように峰崎は胸に返した。
 手放し掛けていた、力強い音楽への執着とともに、胸を掻く。
 それを見守るように、巴はいつまでも行こうとしなかった。
「懐くな。俺は子どもは相手にしない」
「私は子どもじゃないし、あなたの方がまるで子どもよ」
 ようやくいつも通りの不貞不貞しい顔を見せることができて、巴が高揚するのが峰崎にも伝わる。
「私は子どもの頃から、自分より大人だと思う人間に会ったことがないわ」
「思い出した。本当に危険なガキだったな」
 そうだそのせいで自分は真昼の公園で男と痴態を演じる羽目になったと、苦々しく峰崎は呟いた。
「あなたはその中でも、トップクラスのクソガキだった」
「おまえに出会ったとき、俺はもう三十だったぞ」
「おまえって言った」
 くすりと、巴が笑う。
「それがどうした」
「さっきまで気取って、私を君なんて呼ぶから。熱を測ってあげようかと思ってたのよ」
「救急車が必要だったな。おまえのその黒いドレスが忌々しい」
 大人ぶるなと、峰崎は言葉を吐き捨てた。
 満足げに、巴が峰崎の開いた襟元を見ている。
 見られて右手に、自分がタイを掴んだままでいることに峰崎は気づいた。
「ねえ」
 すっと、巴が峰崎に歩み寄る。
「なんだ」
 右手の中から、巴がタイを持っていくのを峰崎は見送った。
「殺したいとずっと思っていたけど」
 首にそれを掛けられて、言葉とともに締められるのかと思ったが、そのまま巴は何をするでもない。
「今少しだけ、死なれたら困ると気づいて戸惑ってるわ」
 もう少女とは呼べないまなざしを、巴は初めてはっきり見せた。
「戸惑うのは嫌いよ。無駄は嫌いなの」
「初めて気が合ったな。俺も無駄は大嫌いだ」
 けれどその瞳を峰崎は、受け入れるつもりはない。
「気が合ったのは初めてじゃないのも忘れたの? 私たち同じ楽器を愛したのよ」
 過去に置いて来た音のことを、巴は口にした。
「そうだったな。そして同じ楽器に振られた」
 まだあの楽器に敵うものに会えていないとも、峰崎が気づく。
 だが心の中で、もう彼の楽器の音を食み返すことは叶わなかった。何度も耳の奥で尋ねるように聴いていたのに、いつの間にか彼の声を思い返すことができなくなっている。
 また、探さなくてはと、峰崎は顔を上げた。
 終わることはない。息をしていれば、音楽は何処にでもある。
 たとえどんな立場に、自分の名前が墜ちることがあっても音楽はなくなりはしない。
「戸惑うわ」
 背を張る峰崎にまた、巴はまた同じことを言った。
「そんな顔をしてるな」
 どんな感情に彼女が戸惑うのか、峰崎もまるでわからないわけではない。
「美しい女になった」
 くれてやれる言葉は、それぐらいがせいぜいだったけれど。
「知ってるわそんなこと。どうでもいいことだと思っていたけど」
 きれいな髪を、巴は自分で撫でた。
「悪くないわね」
 細い指はもう、少女の影を完全に消そうとしている。
「もうあのアルトリコーダーは持ってないのか?」
 少し、遠い日の少女を引き留めたいと、峰崎は思った。
「大切に手入れをして、今も取ってあるわ」
 そうしなければ巴の言う戸惑いに、巻き込まれてしまうかもしれない。
「今度」
 そんなことは、真っ平ご免だ。
「聞かせてくれ」
 だから峰崎は、おかしな色のランドセルに差してあったアルトリコーダーを求めた。
「そうね」
 きれいに巴が微笑む。
 そうして峰崎に背を向けて、さよならを言わずに軽やかに彼女は階段を降りて行った。
 いつ聴かせてくれるのか、約束はない。
 そのせいで残像のように、巴の弧を描いた唇が視界に残った。
 顔を顰めて峰崎が、彼女が完全に消える前に夜景を振り返る。
「厄介な女だ」
 いつの間にか巴を「女」と呼び捨てたことに気づかぬまま、暗くて丸い公園を探す思いは峰崎の中から潰えて消えていた。


  1. 2016/03/23(水) 22:16:27|
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