すみません少し自分の話から始まりますが、具体的にこうしたいというところにたどり着くのでよかったら最後まで読んでやってください。
九州方面の大きな地震が起こって、二週間が経ちました。
二日前に地元友人と話しました。
彼女は二週間前に地震があってから、Twitterを見るのをやめたと言いました。
理由は、友達が「震災のとき福島の人ずっと怒ってたよね。県民性かな」とツイートしたのを目にしてTwitterが見られなくなったとのことでした。
たくさんの方が、何もかもを置いて町ごと突然生活を奪われた、原発による人災があった土地です。友人は震災発生当時には仕事の関係で、何も持たない子どもが凍える日に裸足で放射能検査を戸外で受けなければならないのを見るという日々を過ごしていました。
その何気ない気持ちで呟かれた言葉に彼女が、ネットそのものに怯えるのは私には当然に思えました。
私はと言えば、四月二十一日にこのようなツイートをしました。
『叔母が、 「雀が帰った」 と言う。震災以来初めて今年庭に雀が帰ってきたと言う。
「私の仕事場には去年燕が帰ってきたよ」
と言うと、
「やっと安心な土地になったのかな」
と叔母が笑った。 原発のある福島県の五年目です。 九州にはもっと早く復興が来ると思う。 どうか絶望しないで』
他にこのときには言葉が見つからなくて、私に言える精一杯でした。
たった一人、多分通りすがりの方に、
「東北とか福島の人ってすぐ絶望するよね!」
と言われました。
震災関連死、行方不明者まで含めると現在では28000人が失われた震災のことを言ってるのかなこの人はと、情けないけど私は私で何を言うのも怖くなってしまいました。
外側からだけでなく、被災地の中にも温度差はあります。
五年経って、「もう復興は終わった」と感じる方と、身近な方を亡くした悲しみや生活をなくした辛さから前に進めない方とで、被災地も様々です。
震災発生当時、私と友人の間にさえも多少の温度差はありました。
友人は無関心が一番辛いと、そのことに胸を痛めていました。
私はそこはそうでもなかったので、友人の気持ちを聞くことしかできませんでした。
地震発生から二週間経った九州方面も、そうなっていくのかなと想像します。
自分だけがまだ辛いのかな、自分だけがまだ震災のことから逃れられないのかなと、苦しむ方々がきっともしかしたら今もいらっしゃるのかなと想像しました。
三月に日記に書きましたが、痛みや悲しみに寄り添えず想像が及ばないのなら、そういう方はたった一つできることがあると私は思います。
沈黙して欲しい。
そして情けない臆病さで、できることもないと沈黙していた私自身は、一つできるかなということに気づいたのでそれを実行できたらと考えています。
私は被災地在住と言っても、ライフラインも生きていたし、避難所生活もしませんでした。
一月近く、道路、鉄道が寸断された中で余震と物流に不安を抱えながら過ごした程度の被災者です。
でもやはりその一月の怖さは覚えているし、今も言葉にするのを躊躇う喪失もありました。
それは専門家に尋ねていただかなくてはならないということも多々あるだろうとは思うのですが、震災を経験した者として、答えられる限りのことに答えていこうと思います。
怖い、悲しい、不安、そういった負の気持ちは閉じこめないで欲しい。
お彼岸に、津波に全てがさらわれた宮城県の閖上地区を訪ねました。命がたくさん失われた土地です。
閖上地区の子どもの精神的なケアとして、震災当時の子どもたちが見てしまった光景をジオラマのようなもので子どもたち自身に再現してもらって、それらを言葉にして吐き出すということが行われたという映像を見ました。
その映像の前にはたまたま、今は閖上地区に住めなくなった閖上小学校出身の少年がいました。歯をくいしばってまっすぐ、当時の映像を見ていました。
理解されないという怖さから、悲しみや怖さを誰にも言えずにいることは本当に心によくない。
身近に分け合える方がいたら分け合って欲しいし、どうしても誰にも言えないなら、よかったら私に聞かせてください。
聞くことしかできないことも、たくさんあるとは思います。
「地震酔い辛いよ。余震怖いよ」
そういうことでも、誰かに聞いて欲しいときに相手が見つからなかったら、私が聞きます。
具体的に震災を経験した者としてアドバイスできることがあればさせてください。
Twitterでリプしてくださってもいいし、私のホームページのメールフォームを使ってくださってもかまいません。
可能な限り、一つ一つお返事をしていくつもりです。
私も自分の日常を保ちながらのことになるので、ゆっくりゆっくりのことになってしまうとは思いますが、問いかけがなくなるまで続けられたらと思います。
よろしくお願いしますね。
- 2016/04/29(金) 07:42:28|
- 日記
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お彼岸にゼミの友人が会津に来てくれて、一緒にお墓参りして温泉に入りながら、
「あの学校にして良かったなあ。学生時代はあのときが一番楽しかった」
「私も」
なんて幸せな話もできて、翌日の朝から一泊二日で宮城旅行に行きました。
「会津に来るなら、宮城に足を伸ばさない?」
そう誘ったのは私だったけど、友人の人脈や判断力に助けられまくって、とても充実した宮城旅行になりました。
しかし決めたのがお彼岸に近かったからなのか、宿は一択でした。シングルは一つもなく、ツインというか、和室に布団を敷いて寝るホテル一択。仙台は訪問者に対してホテルが少ないといつも思うのですが、今回は一万人が訪れる学会と被ったことが後に判明しました。決まると一年前には宿はほとんど押さえられてしまうそうです。旅行者は要注意です。
以下、青字には全てリンクが貼ってあります。
神奈川から来た友人は前日うちに泊まって、二人で昼に着くように仙台に向かいました。
3時には
「仙台うみの杜水族館」に行く予定なので、到着してすぐに仙台駅1階の「北辰鮨」に並ぶ。私と友人は魚がとにかく好きで、私はここのカウンターが好きです。ネタを見ながら選べるし、たまに愉快な人が隣に座ったりする。
連休なのに思ったより早く入店できましたが、カウンターは無理だったのでテーブル席で食べました。
いつでも美味しい。
みんな大好き仙台駅1階「ずんだ茶寮」で休憩。
ここは「ずんだシェイク」が人気です。
私は夏の「ずんだかき氷」が好きだ。あんまり甘くない。

仙台駅からJR仙石線で中野栄駅に移動。
「徒歩15分だから水族館まで歩こう」
友人は言ったけれど、私は知っていた。
「仙台の徒歩15分を舐めたらあかんで」
生まれもつかぬ関西人になって、案の定30分近く歩く。
しかし宮城県は車社会ながらも、歩道がとても歩きやすく整備されています。平地だし、歩くのが苦でない人は歩いてもいいと思う。
そして一時間半くらい掛けて、水族館を堪能しました。
水族館は魚好きの友人の希望だったのですが、私も久しぶりの水族館がとても楽しみでした。
「仙台うみの杜水族館」はできてまだ半年で、発展途上です。震災復興関連の一環でもあるし、津波でたくさんの生物の命を失ってしまった88年の歴史を持つマリンピア松島水族館の後続施設でもあります。松島水族館から魚も人も移っているし、新しい試みもある。
私はこの水族館が大好きだなあと思ったのが、入り口からしばらくが目の前の三陸の海そのものなんです。
お出迎えはホヤ。
「さばくの意外と簡単なんだよ」
友人に言うと、
「さばいて食べられるホヤになかなか巡り会えない」
残念そうに言われて、
「そりゃそうだな」
大きな水槽の前に行くと、二万尾の鰯が群れを成していてまさに三陸の生物が泳いでいる。
そこからは私たちも周囲の人々も、
「かわいい」
「美味しそう」
「きれい」
「鍋にしたい」
「愛嬌があるね」
「刺身で食べたい」
かわいいと食べたいのアンビバレンツ。
そこにこの海があるんだなあと思いながら、歩きました。

イルカショーはすごい人で見られなかったんだけど、私と友人は最後に思わぬ穴場に気づいたのでそっと教えます。
いつでもこの光景に出会えるとは限らないけれど、ほとんど人のいないイルカの前に5時半頃座ると、飼育員の方々が掃除を始めました。
恐らくなんですが飼育員の方々がいるので、イルカが遊んで欲しくて大騒ぎ。
観客はいないので、見たい放題見ました。
隣でイルカ大好き幼女がずっと騒いでいて、
「かわいい! かわいいねイルカ!」
とお母さんとお姉さんに訴えていたのですが、お姉さんはノーリアクション。
「連れて帰ってうちで飼いたい!」
そう幼女が言ったときだけお姉さんは、
「無理!」
と言いました。
微笑ましかった。

この水族館では事前申し込みで、「バックヤードツアー」というものが見られます。水族館の裏側を見せてもらって、説明していただけます。
私の友人は私と同じ国文クラスなのですが、もう15年以上ダイビングと魚の研究のボランティアをしています。
ボランティアと言っても、撮影した写真が図録に載ったりと、おまえの本職はなんなんだという活躍ぶり。
今回もボランティア先の先生のご紹介で、「バックヤードツアー」のときに水族館の立ち上げスタッフさんにご案内いただけました。
おお贔屓じゃんと思わないで。友人はずっと魚の標本作りなどのボランティアで続けていて、これはちょっとしたご褒美です。継続は力なりの、私はおこぼれにあずかって、わくわくとバックヤードツアーに参加しました。
私は魚が好きだけど、隣に立つ友人が水槽の魚の名前をスラスラ言うのに驚くばかりの素人です。
このツアー、何が楽しかったって、案内してくださった方と友人のコアすぎる魚好きのやり取りがおもしろかった。
時々二人が何言ってるのかわからない。
魚にあげるごはんを作る部屋に入ると、友人は颯爽とシンクを覗きに行きました。
案内の方は、
「おお、行きますねえ」
と、とても嬉しそう。
この人達がおもしろいわと、私は後を追っかけていました。
ツアーも堪能してもう一度鰯を見て、
「鰯食べたいねえ」
と仙台駅に戻る。
私は仙台に来たときは、「三日月」か「Hey!周平」に行きたい。前者はワイン、後者は日本酒。
今回は「Hey!周平」で日本酒を堪能しました。
どちらのお店も何を食べても美味しいです。

二日目、朝一で牛タンを食べようかと歩いていると、昨日も入った「北辰鮨」が開店直後のせいか人が並んでいない。
友人がじっと、「北辰鮨」を見ている。
「牛タンを食べようと言ったのは仙台に来たからで……私も今日も鮨でも全く構わないが」
「じゃあ鮨にしよう」
真っ直ぐ欲望に突き進む友人と、この日はカウンター席に座る。
お隣に、お彼岸だからお墓参りに行くという老婦人が座っていてお話をしました。
「最後の海外旅行はミャンマー。身内が亡くなったの」
ここのカウンターでは今までも、色んな方とお話しさせてもらいました。
なんというか、素敵だなと思う方に出会うことが多い。
老婦人の向こうに、私たちは同い年くらいの外国人男性がいました。老婦人が最初、その男性と英語で話していました。
「学生時代を東北大で過ごして、でも僕はマレーシア人で、妻がオランダ人なので今はオランダ国籍」
国の名前がたくさん出て来たので、合っているかよくわからない。
「あなたは何処から?」
「私は福島県です」
「福島! 大丈夫なのですか!?」
とても心配してくださいました。
「福島県は日本で3番目に広い都道府県です。私の住んでいる会津は原発からはとても遠い。むしろ宮城県や栃木県の海沿いの方の方が不安かと思います。地図の上の線で放射能が途切れてくれるわけではないので」
「本当にそうね」
老婦人が溜息を吐いていました。
カウンター席の人々と別れて、私と友人は今回の旅の大きな目的である、
「語り部タクシー」に乗るべく乗り場に向かいました。
この「語り部タクシー」は友人が見つけてくれたものです。
「海辺に行ってみたいんだけど。きっと仙台駅と全然違うと思うんだ」
友人に告げると、
「私も行きたいと思ってた」
そう即答してくれました。
私はレンタカーを借りて自力で行こうかと考えたのですが友人が、
「多分立ち入り禁止地区もあるし、海に近づけるかわからないし。震災前の風景がわからないから、こういうのがある」
と「語り部タクシー」を見つけてきてくれました。
四人までなら、料金は一台いくらで均一です。
三時間前後でないと意味がないと、行ったらわかりました。海まで仙台駅から片道40分以上掛かるので、二時間にすると行って帰って終わってしまう。
また、「語り部運転手」の研修を受けている方は宮城に200人いるそうです。
選ぶことはできないかと思いますが、私たちが当たった運転手さんが言うには、車で一通り回って降りずに終わってしまう方もいらっしゃるそうです。
行く前に電話などで、何処に行きたいか、どんな話が聞きたいかを明確にしておくとそれに合った運転手さんに担当していただけるかもしれません。
私と友人は3時間コースで、16000円強。
当たった運転手さんは、多分、何かしら海辺に特別な感情を持った方でした。
それがいいことなのか悪いことなのかはわかりません。
私は、
「この方はそう思うのだな」
と自分に確認しながらお話を聞きました。
碑のある場所ではお線香を用意してくださって、それがとてもありがたかったです。
震災当時の様子を伺いながら、閖上(ゆりあげ)地区に行きました。
千人以上の方が犠牲になった場所です。
朝市が立ち始めていましたが、ほぼ更地でした。
ここには慰霊碑があり、お彼岸ということでお花を持った方々か何人かいらっしゃいました。
「閖上の記憶」というプレハブの建物があります。
中に入ると奥で、10分ほどの映像を流してくださいました。
おばあさんが冒頭で、
「津波や、悲鳴の映像が流れます。辛かったら下を向いてください」
それらの映像は、頭の2分程でした。
そこから、閖上地区の子ども達がどんなケアを受けて心を再生していったのか映像とともに説明がされました。
秘密にして辛い思いを閉じ込めずに、当日のジオラマや粘土細工を作って、その日のことを語り合うというケアがされたそうです。専門のケアの方がいらしたのかなと思いました。
映像の流れる暗い部屋には、私と友人の他に、ロードバイクに乗るための服装をした少年がいました。
津波の映像も悲鳴も、彼が何か歯を食いしばって見ているのが、気に掛かりました。
少年は、閖上小学校の生徒だったそうです。
今はここには住めないので、遠くから自転車で来たそうです。
彼らが造ったのだろう、ジオラマを見ました。
閖上中学校では、十四名の生徒が犠牲になりました。
彼らの遺品が、置かれていました。
随分愉快な手書きのTシャツが泥に汚れて、持ち主はなく。
外に出ると、黒い碑があります。
十四名の名前が刻まれた、小さな碑です。
たくさん触ってもらえるようにと、角が丸く丸く作られています。
たくさん触って、手をあわせました。
言葉は何もなく、普段ほとんど泣くことのない友人が黙っているので、私も彼女を見ないで、碑を見ていました。
閖上地区では、三千本の桜を植えようという活動があるそうです。
「笑おう、いつの日か。集おう、いつの日か。三千本の桜の下で」
そんなポスターを見ました。
桜の里親を募集しているそうです。
いつか桜の下でまた笑顔になれる日を願って、閖上を後にしました。

荒浜地区に移動すると、閖上と同じ海沿いのはずなのに随分と荒れ果てたままでした。
「市が違うんです。行政が違うので、ここは危険地域に指定されています。帰りたい人たちが戦っていますが、帰れないでしょう。もう住めない土地です」
運転手さんに説明を受けました。
みんなが集う場所は放火されてしまい、今は24時間監視カメラが設置されています。
帰りたい人、新しい土地に移りたい人、市政と、様々な思いがあることが見てとれました。
最近になって、やっとわかったような気がしている気持ちがあるのですが。
震災の直後に、
「家が流されるのは二度目だけれど、またここに帰りたい」
というおばあさんをテレビで見ました。
そのときは正直、何故、と思った。
私ならもう、怖くて海辺には住めない。
でも最近、なんとなくですが、帰りたい人の気持ちは当たり前だと思うようになった。
生まれた土地、生きていた土地、親族や友人、自分たちの暮らしや歴史があった土地に帰りたいのは当然の感情だと、今は思います。
海には防潮堤が作られていました。
防潮堤に、黒いジャケットを着た年輩の男性が座って海を見ていました。
何度も彼を見ましたが、動くこともなくずっと海を見ていました。
ここには、犠牲になった方々のお名前と年齢が刻まれた大きな碑がありました。
幼い少女の名前も刻まれていました。
津波が来るまでに時間があったので、一度帰宅したり、迎えに行ったり、家族を探したり、そういったことが仇になったという話でした。
「津波が来たら必ず自分が逃げるとみんなが決める。そうすることで、失われないで済むかもしれない家族の命も助かる」
それはあの津波で得た、教訓の一つかもしれません。
「この辺は、津波は1メートルなんです。助かると思うでしょう?」
海から4キロに渡った津波のことを、運転手さんは語りました。
「でも速度が速すぎるし、瓦礫も一緒に流れて来ました。プロパンガスが噴出してあちこちで火が出て、1メートルでも助からないです」
頷いて、手をあわせて、仙台駅方面に向かいました。
途中「津波タワー」というものを見ました。
震災後に作られた、津波が来た時に住民が上れる駐車場のような形をしたタワーです。
「いくらだと思いますか?」
運転手さんに尋ねられました。
「想像もつかないですけど……億単位ですか?」
「2億だそうです。前例がないので、相場がわかりませんよね。うちなら1億でやるのにという建設会社の方を乗せたことがあります」
どうとも判断がつかない話で、なんとも言えない気持ちで津波タワーを眺めました。

仙台駅に近づいて、更地から街へ帰る時間の短さに戸惑いました。
現実に帰ってきていると思いそうになって、違う、海辺も等しく現実だと気づきました。
「とても大切な旅になった。ありがとう」
新幹線に乗る友人と別れて、私は新しくできた仙台駅エスパル東館に入りました。
百円で試飲できる日本酒や、あたたかい笹かまぼこを食べながら日本酒が飲めるきれいなカウンター。
人に溢れて活気があって、エスパルはとてもきれいでした。
これもまた、宮城の今。宮城の現実。

閖上や荒浜から来た私には戸惑いもあったけれど、もちろん今を謳歌することは全ての人に与えられた当たり前のことで、私も日々謳歌している。かまぼこも食べて、日本酒も呑んだよ。ちゃんとエスパルも楽しんだ。
海辺には、行って良かったです。
人気の少ない閖上の黒い丸い碑や、自転車で来た歯を食いしばる少年、防潮堤の上の男性、荒れ果てた荒浜にも同じ時間が流れていました。
これは誰の代わりにでもなく、見てきた私からの言葉です。
どうか忘れないで。
- 2016/04/22(金) 09:40:37|
- 旅行記
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河出書房新社から、3月中旬に「僕は穴の空いた服を着て。」というタイトルの小説単行本が発行されます。
ジャンルと値段はいつもと違いますが、中身は全くいつもの私です。
値段は1300円程になります。四六判という判型になります。高くてごめんなさいと最初ここに書きましたが、本の体裁としては適正価格ですよと教えられました。読んでいただいて、適正価格だったと思っていただけるものが書けたと、私は思っています。そう思っていただけたらありがたいです。
ジャンルは一般小説になります。
でもいつもの私と変わりはありません。
読んでいただけたらただ嬉しい限りです。
一点、いつもと少しだけ違うことがあります。
今のペンネームで仕事をして多分今年で23年目ですが、今までは何かしらの決まり事を守って書いて来ました。ラブストーリーであること。時代小説であること。エンターテイメント性から逸脱しないこと。
これらの決まり事を守ることを、私は今現在も充分楽しんでいますし、自分で好んで選んだ決まり事です。
今回初めて、一切の決まりごとのない中で、自分の書きたい気持ちだけで書きたいことを書きました。
それは怖いことでもありましたが、思いの外楽しかったです。
機会をくださった河出さんには感謝しています。
もう一つ。
「朝彦と夜彦1987」に関する日記の中で二度、「小説化は不可能だと判断して、同じテーマで違う小説書く予定でいたところ、上演が決まりました」というようなことを書いています。ごめんなさいこの文章が伝わりにくかったみたいなのでご説明しますね。「朝彦と夜彦1987」は、小説に書き直そうと何度か試みたんです。でも戯曲として書いたので、「朝彦と夜彦1987」そのものを小説に書き換えることは不可能だと途中でそれはあきらめて、私にとっては同一のテーマだけれど全く別の小説を書こうと決めたんです。
それがこの小説です。
こちらの発行が決まった時期の方が上演が決定するより早かったので、それを追い越して「朝彦と夜彦1987」が上演されたことは喜びとともに驚きでした。
「朝彦と夜彦1987」の中にあるテーマは、一つではありません。
いくつかのテーマの中の一つを、今回は題材にしました。
朝彦も夜彦も、「僕は穴の空いた服を着て。」の中には存在しません。
ただ、似た台詞、似た表現が複数回出て来ます。
このことについては執筆中に悩みましたが、外すことのできない言葉だったので重複になりますが小説でも書きました。
ご容赦いただけますと幸いです。
これはいつどの本を出版していただくときにも同じく思うことですが、一人でも多くの方に読んでいただくこと以上の望みも喜びもありません。
書店予約も始まりました。読んでいただけたら、本当に嬉しいです。
書影が出たので、カバー周りについて少し語らせてください。
カバーデザインは、坂野公一さんが担当してくださいました。担当編集者さんとともに、最良の形にしてくださることを全く疑わずに全幅の信頼をおいて完全にお預けしました。言葉もない素敵な本にしてくださって、ただただ感謝ばかりです。
イラストをくださった川野さんは、たくさん上げていただいたイラストレーターさん候補の方の中から、坂野さん、担当編集者さん、私の満場一致の第一希望の方です。お引き受けいただけて、そして気持ちが洗われるような美しいという言葉だけで表現しきれない心のあるイラストをくださって、本当にありがたかったです。
帯文は、俳優の瀬戸康史さんに書いていただきました。お忙しいのにきちんと読んでくださって、長く、そしてとても丁寧な言葉を綴ってくださいました。丁度、担当さんと裏帯について話し合っていたときに瀬戸さんからの帯文をいただいて、担当さんも私も、瀬戸さんのこのお言葉だけで帯はもう充分過ぎると頷き合いました。長く書いてくださったので、担当さんが泣く泣く少し削らせていただきました。きちんと、「僕はこう思う」と主観であることも沿えてくださる気遣いまでがあって、私の方が感謝を上手く綴れる自信がないです。
それらの全てを繋いでくださった担当さんには、本当に感謝では足りない。長い時間、声を掛け続けてくださった担当さんです。ありがとう。書けて嬉しかった。
私はデビュー前に河出書房の「文藝」に投稿していました。二次選考を超えることはできませんでした。
随分時間が経ちましたが、やはり感慨深さはひとしおです。
お手にとっていただけたらありがたいです。よろしくお願いします。

- 2016/04/22(金) 07:30:50|
- 告知
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「小説 Dear+ (ディアプラス) Vol.61 2016ハル」(新書館)3/19発売
私は、
「色悪作家と校正者の不貞」(前編)
を書かせていただいております。
色悪作家東堂大吾(30)×美人校正者塔野正祐(27)の物語、前編です。すみません私が倍の長さを書いてしまい、急遽前後編になりました。後編は「小説 Dear+ (ディアプラス) Vol.62 2016ナツ」(新書館)6/20発売に掲載されます。
ラブコメというリクエストをいただいて、全力で応えてみました。おもしろいものになったと自負しております。
挿画は麻々原絵里依先生です。とても楽しみ。ただただ楽しみ。
文庫化は、後編から一年くらいは経ってしまうと思いますので、雑誌で読んでいただけるとありがたいです。
おもしろいよ!
そして、どうしようと思っていたのですが、3月刊行の3冊に小説を書いている私です。
「僕は穴の空いた服を着て。」(河出書房新社)本日発売。
是非読んでいただきたい一冊です。
「いたいけな彼氏」(徳間書店キャラ文庫)3/26発売。
湖水きよ先生に挿画を担当していただいた、とても美しい本になりました。この本については、後日別に告知記事を書きます。
しかし何故、こんな発売日が集中しているのだと思われると思います。
すみません私も発売日は散らしたいのですが、今月はこういう形になりました。
じゃあどれから買えば? と問われれば、書籍は初動が命なので、単行本や文庫を買っていただけたらありがたいかぎりなのですが、今回雑誌に書いた話も本当にすごく気に入っているんです。
でも試しに3冊カートに入れたら「 小計 (3 点): ¥ 2,970」こうなった。
おいしいランチ、三回以上。一回呑めるね。
さすがに全部今月買ってくださいとは、私も言えないです。
どれも、全て同じ気持ちで書いています。
どれも、全て読んで欲しいです。
ですから、お財布と相談して、興味が向かれたものから手にとってやってください。
6月までは、小説の発行は予定にはないです。
もちろん3冊とも読んでいただけたら嬉しいですが、無理のない範囲で、よろしくお願いします。
- 2016/04/22(金) 06:11:32|
- 告知
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「いたいけな彼氏」3/26発売です。
大学のコミュ障新入生×大学四年生の、年下攻めです。私の一人年下攻めフェア、とりあえずいったん終了の一冊。
湖水きよ先生がそれは美しい挿画をくださっています。
こちらです。
いつもの私はいつもの私なのですが、ちょっと違うところがあると書いてから気づきました。
主人公の四年生が、いわゆる一つのビッチ受けです。当社比ですよ! 私の受けはだいたい初物だと、この間BL雑誌のアンケートに答えて気づきました。主人公には元彼もいるし、出て来ます。そういう話なのでそういう人なのですが、苦手な方もいるかと思いお知らせ。
そしてこの本は多分、私が過去書いた商業BL小説の中で最も濡れ場回数が多く、私にしては割とちゃんと書いている。これも当社比ですが。
どうした。何か目覚めたか。
ええそうなんです(すぐ自分と対話する)。この小説の本編を雑誌に書いているときに、初めて気づいたんですが。
誰とどんな気持ちでするかで、セックスってその時々変わるんだなと思い、二人の気持ちの変化とともにそれぞれのセックスをちゃんと書いてみたらそれは楽しかった。
え? 何十年その仕事してんの。今気づいたのそれ。
と、言われるだろう告白をしてみました。
自分の書いたものに対価を払っていただいたらいつでも胸を張らないとと思っていましたが、正直に言うと濡れ場だけはちょっと、
「なんかいつも似たような感じでごめんよ。つまらんだろう私の書く濡れ場。すまん」
みたいに思うことがたまにあって、なので朝チュンも多いのです。
今回の物語の本編を一年半くらい前に書いたときに、
「なるほど、そんときそんとき変わるのだな」
と突然気づいたので、それ以降に書いたものはそのときどきの状況に合わせて割とちゃんと書いてます。当社比だよ……。
最新作の「小説ディアプラス ハル」に書いた「色悪作家と校正者の不貞」では、この攻めきっちりする人だろうなと思い、初めて念者と念弟のやり方を調べて熟読して書いた。
え? 何十年その仕事してんの。こないだ調べたのそれ。
すまん。こないだ調べた。
今でも基本、BLの濡れ場は、私はですがファンタジーでいいとは思っています。それは、これ読んで参考にして実行する人ほぼいないだろうと思うからなんですが。なので書く人読む人が楽しいのが一番なんじゃないかなと、私は思っています。
色悪作家は、たまたま勉強して実行するタイプのキャラクターだったので、私も勉強して書きました。
そんな訳で私には気づきの1冊です。
書き下ろしも50ページくらいかな? あります。雑誌の、その後の二人。
当て馬書くの大好きなので、当て馬登場人物二人楽しく書いて、その二人はまた書きたいなといつもの気持ち。
楽しんでいただけますように。
よろしくお願いします。
- 2016/04/22(金) 05:11:52|
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