菅野彰

菅野彰の日記です

「アイルランド・フェスタと夜」

「小さな君の、腕に抱かれて」(新書館ディアプラス文庫)に登場する、峰崎俊司と雪森巴の十年後の一幕です。
 特典ペーパー「さよならの行方」で書かせていただいたアイルランド・フェスタから十年後になりますが、ペーパーを読んでいなくても本編を読んでいただいていればわかる内容にはなっているかと思います。
 そもそも本編を読んでいない方は意味がわからないかもしれませんが、短いので良かったら慰みに読んでやってください。

 私はWEBで小説を公開するのが多分初めてで、担当さんに仕事外のことをさせて申し訳なかったのですが目を通していただきました。
 いつの間にか、担当さんが読んでいない小説を公開することに怯える小心な作家に育っておりました。
 本当にですね、小説をパスワードもつけずにWEBに置くのは私には全裸気分なんですが、みなさまに意見を募ったところ、
「全裸になったらいいと思います」
 と言っていただき、まっぱになります。
 小説の方がね、私はなんか恥ずかしいんだよね。
 何故初めてWEBで小説を公開することになったかというと、何処にも行き場のない話を不意に書きたくなって書いてしまったからです。
 おつきあいいただけましたら幸いです。 続きを読む
  1. 2016/03/23(水) 22:16:27|
  2. 小説

「いつものサンドイッチがいつもじゃなかった日々を忘れないよ/3月11日」

 今年は少し前に日記を書いたので当日はと思っていたけれど、書きたいことがあったので、日記です。
 何ができるわけでもないけど、この日は私はできればここにいたい。
 良かった探しはいつでも上手じゃなくて、良くないことがあったら「良くなかった」と受け止めて次への力に変えるのが私の毎日なのですが、最近このことだけは「私はここにいて良かった」と思うようになりまました。
 十年前に福島に転居して、震災を福島県民として過ごすことができて、私は良かった。
 どうしてと尋ねられたら一言では答えられないけど、遠くで心配しているよりは当事者であることがまだ良かったと思います。私にはです。

 四年間毎年この日は、卵の入ったサンドイッチを買って食べると日記に書いて来ました。
 今年も同じに、買いに行きましした。
 震災前も震災後も、変わらずパンを買わせていただいているパン屋さんです。
 震災のとき、このパン屋さんは店を閉めることなくパンを売り続けてくれました。
 それまでは普通に冷蔵庫にいつも入っていた卵が全く手に入らなくなった日々にも、卵の入ったサンドイッチを売ってくださいました。
 東京もそういう時期があったので、これは被災地だけのことではないですが。
 被災地は、鉄道、高速道路が震災で断たれて、流通が一切寸断された日々が長く続きました。
 この頃のことは帰ってきた海馬が耳から駆けてゆく2に、被災地での一ヶ月を書かせていただいています。
 わからないことの多い日々でした。
 大切なあの人は無事なのか。物流はどうなるのか。復興に向かう日は来るのか。
 トイレットペーパーも買えず薬局にいたときにおばあさんが、
「何故こんなに物がないの?」
 と、お店の方に尋ねていました。
「この辺の物はほとんど仙台から来るんですが仙台も震災でままならなくて、仙台との行き来も今は厳しいんです」
 お店の方が説明していましたが、よくわからない風のおばあさんを、私はなんともいえない気持ちで眺めていました。
 高齢者の多い地域です。インターネットもメールも使わないおじいさんおばあさんはこのままだと飢えてしまうと、それは私には恐ろしい光景でした。
 売れるものがないから、コンビニも閉まったんです。
 いち早くヤマト運輸が動いてくれたときには、本当に嬉しかった。
 あのときのことが忘れられないから、私は荷物はなるべくヤマトさんにお願いします。

 終わりの見えない、どんどん物がなくなるばかりの日々の中、このパン屋さんは毎日パンを焼いて売ってくださっていました。
 当たり前に食べていた卵が食べられなくて、でもここのサンドイッチには卵が挟まっていて、それは嬉しいとか切ないとかそんな簡単な気持ちでは語れない思いでした。
 卵だよ。コンビニにもあるよね。今ではもう信じられない人も多いと思う。

 私は去年もこの日にここでこのサンドイッチを買って、震災のときのお礼を言おうかと思いました。前の年も思ったと思う。
 通りすがりの方にも、ありがたいと思うことがあったら私はお礼を言います。心で思っても伝わることは少ないから、「ありがとう」と「ごめんなさい」は口に出します。
 でも、今日までパン屋さんにはお礼が言えなかった。
 ありがとうの気持ちが大きすぎたというのも、あります。重すぎるありがとうで、簡単には言えなかった。
 もう一つ、一時はほとんどこのパン屋さんだけが営業をしていました。
 何故ここには小麦粉が、何故ここには卵が、という不思議さはあって、聞いてはいけないような気持ちもしていました。ガソリンもないから、何処かに探しに行くにも限界があります。

 五年が経って、今日、初めてお礼を言いました。
「私この日は、いつもこのサンドイッチを食べるんです。日々食べてますが、この日は必ず食べるんです。震災のとき、一ヶ月に渡って、パンを売ってくださったのも卵を食べさせてくださったのもこちらのお店でした。コンビニも閉まっていました。あのときは本当にありがとうございました」
 初めて、頭を下げました。
 私の母より少し若いくらいの奥さんが、答えてくださいました。
「うちは主人の親戚が新潟にいて、新潟から何度も小麦粉や卵や野菜を運んでもらって毎日必死で営業してたの。ガソリンもなくて、だから新潟から来てもらうしかなくて。復興は信じていたけどいつ流通が戻るのかはまるで見えなかったから、『パンの耳でもいいんです』っていらっしゃるおばあさんがいらしてね。お孫さんがお腹を空かしていてって、おっしゃってね。毎日みなさんに食べるものを渡さないとって、必死だったの」
 私には震災のあと、このパン屋さんはファンタジー映画に出てくるお城みたいに思えていました。
 スーパーも物がない。コンビニも閉店している。
 そんな中で静かにパンを、ここだけがいつも通りに売ってくれる。
 幻みたい。夢の中のお城みたいだった。
 でもそうじゃなかった。
 お城だと思っていたパン屋さんは、毎日毎日そんなにも必死だった。
「でもね、時間が経ってまた当たり前に卵が買えるようになると、みんな忘れてしまうの。それは幸せな世の中だけれど、輸入に頼ることが多くなって、戦争の一つも始まれば輸入品は何も入らなくなるのに。それで農家がやっていけなくなってどんどん田畑が減って行ってる。輸入に頼ることが増えていく怖さを思い知った筈なのに、どうしてなのかみんな忘れてしまう」
 国内の農家や、酪農がどんどん減っていくことを、パン屋さんは案じていました。
「覚えていてくれて、ありがとうね」
 私がお礼を言ったのに、パン屋さんは泣いて、頭を下げられました。
「これからもよろしくお願いします」
 それだけ言うのが、私も精一杯でした。

 今年は会津美里町本郷の樹ノ音工房さんの器に、サンドイッチを乗せてみた。
 こんな余裕、五年前はなかった。
 忘れっぽい私が、たくさんあのときに知った大切なことを忘れずにいるために、十年前に福島に越してきた。
 忘れたくないから、私はそれをありがたく思う。

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  1. 2016/03/11(金) 15:10:21|
  2. 日記

「東日本大震災から五年を迎えて」

 3月です。
 東日本大震災から、もうすぐ丸5年です。日本中がそうだといいなと思うけど、被災地に住んでいるからなのか、私は近づく程に普段とはまるで違う気持ちがします。3月11日14時46分にあんな大きな地震が来るなんて少しも知らずに、前日に春物のコートを受け取っていたなとか、細々思い出して上手く言えないけど明るい気持ちにはやはり少しもなれません。

 去年で丸4年が経って、3月11日当日になんだか少しやり切れないなと思ったことがあったので、今年はちょっと早くに日記に書こうと思います。
 青字の部分はリンクになっていますので飛んでみて下さい。

 私はTwitterで誰もフォローしていませんが、リストに友人や仕事先、好きな作家さんのアカウントを入れてツイートを時々読みます。その他に一つアカウントを持っていて、これは十年に一度のイベントごとで幹事をするためのアカウントです。ほぼ見ることも使うこともないですが、Twitterでしか連絡がつかない方がいたりするのでたまに開きます。
 そんな感じで、去年の3月11日に様々な方の言葉を目にしました。
 リストにも入れていないし幹事のアカウントでフォローしている方でもない方の言葉も、リツイートで読みました。
 たまたま私がいくつか見てしまっただけかもしれませんが、黙祷の時間を巡って揉めている方々がいました。震災のあった時間と、たくさんの方が亡くなった時間は違うのではというようなことで揉めていたようでした。
 そしていくつか見たのは、
「黙祷してる時間があったら仕事する。自分はこの日を特別には思わない。普段から震災のことは意識している」
 というような言葉でした。
 立派だと思います。黙祷の時間仕事して、それで経済を回したり募金したり、本当に立派な姿勢だと思う。

 何を発言するのも誰もが自由なので、これは私からの提案としてよかったら聞いてやってください。
 最初に主旨を書いておきますね。
 黙祷して欲しいという提案では全くありません。
 みなさんお気持ちで自由になさってそれで本当にかまわないと思う。
 どの時間に黙祷してもいいと思うし、黙祷しないで仕事してもかまわないと思うんです。でも、それぞれみなさんご自分のお気持ちだけでそうなさったらいいのではと思いました。
 震災関連死を含めたら、二万人近い方が(平成28年3月11日現在、行方不明者を含めて28000人)亡くなった震災があった日から、今年でまだたった五年です。
 これは、
東日本大震災4周年追悼式での遺族代表の菅原彩加さん(当時19歳)の言葉
 です。辛い言葉だけれど、もし知らなかったら読んで欲しい。
 こういうことが、たくさんあった日。
 こういう遺族が、今日もたくさん懸命に生きていて、胸を詰まらせて震災があったこと大切な人を亡くしたことを思い出さなくてはならない日。
 特別な日だと思わずに黙祷しないで仕事をなさるなら、それも本当に立派です。けれどその姿勢はご自身で貫いて、沈黙はなさってはいかがでしょうかと、去年そういう言葉をいくつか見て思いました。
 これが提案です。
 黙祷する気持ちにどうしても想像が及ばないのなら、できるならせめて、沈黙して欲しいと願います。

 そして黙祷をする方は、ご自分のお気持ちの向かれた時間にご自身がなされば本当にそれで充分だと思います。
 揉めてる時間なんてないよ。

 私自身は、14時46分に黙祷します。
 それを誰かに押しつける気持ちは全くないです。
 しないという姿勢の方も、ご自分の思いのままになさってはと思います。

 国内を旅行しようと思う機会があったら、会津にも来て欲しいけれど、被災地の海沿いに一度足を運ばれて欲しいです。
 私は被災地と呼ばれる福島県の会津に住んでいますが、会津には震災の爪痕はそんなには生々しくは見えません。
 でも海沿いを歩くと、まだまだたくさんの仮設住宅とその中にある商店街、やっと瓦礫がきれいになった広大な更地がある。まだかさ上げ工事をしている一面の土です。
 映像ではなく実際に見ると、驚きます。私は驚いた。
 だけど、非現実のようにも思える土地でたくさんの人が一生懸命生きてるし、人が一生懸命生きてる場所には、美味しいごはんも美味しいお酒もある。店先でのちょっとした会話からも、言葉も出ないような当時のこと、現在のこといくらでも簡単に聞くことができる。そこではそれはまだ、日常だから。

 知ろうとしてみて欲しいです。
 今年は3月を前に、岩手県陸前高田市の米崎牡蛎に触れることができて、強い米崎牡蛎の味に力をもらいました。

 本当の意味でこの日が風化するのには、まだ時間が掛かります。
 私もまた、海沿いに行こうと思う。
 魚貝も美味しい、人も強くてやさしくて一生懸命でなければ今はまだまだ生きるのが大変な、そんな場所だと私は思います。 
  1. 2016/03/08(火) 00:10:54|
  2. 日記

「十八年目、ある花屋への殺意の衝動、でもあなたは九州」

 冒頭に記しておきますが、私は物理的に他人を八つ裂きにしたいと思ったことはこの歳になるまでなかったように思います。
 ある花屋が私に新しい感情を教えてくれた。
 エッセイ「海馬が耳から駆けてゆく」の中で最近も書いたのですが、女子短大の同期Rの長女、Nが先日十八歳になりました。この間久しぶりにNに会ったら、健やかで朗らかでとてもかわいい、かわいいかわいい……かわいいふじょしになっていました。私の本をお友達に勧められて読んでくれています。Nの母親の友人である私の複雑さは一言では語れないけれど、同業者ならきっと、
「心中察して余りある」
 と、思っていただけるのではないかと思います。
 私もふじょし。私の小説の読者さんもだいたいふじょし。友達もふじょし。でも赤ん坊のときから知ってる十八歳に、自分の著作物読まれるのは普通に照れます。それとこれとは話が別なのよ。
 それはさておき、私の同級生友人の最初の赤ちゃんが産まれたのは十八歳のときでしたが、そのときはこちらも学生なので、
「わー! かわいい! 赤ちゃん!」
 みたいな感じで、ちょっとお祝いがんばって包んで、みたいな感じでした。
 Nが生まれたときは私はもう今の仕事を始めていて、なんというかこう、すごい張り切ったんです。ゼミの今も親しい友人たちの中でお母さんになったのはNの母親のRだけだったし、大切な友人であるRに赤ちゃんが生まれて、私はそこそこ仕事もしている。
 とにかく嬉しかったし、経済力もついてきたのでそれに任せて張り切りました。
 Nが生まれたお祝いの席が設けられることになったのですが、私はその頃若さと体力に任せて仕事しまくっていたので、原稿が終わらず行けませんでした。
 それでも私はNの誕生を、どうしても全力で祝いたかった。
 一つ私は、大きな夢を見ました。若さが見せたはた迷惑な夢だと思って、そこは堪えて聞いてやってください。
 シンボルツリーを送ろうと思ったんです。
 Rが嫁いだ先が広い庭のある大きな家だということは、知っていました。
 ならその庭の片隅に、1メートル超えくらいの木を送ったら植えてもらえないだろうか。
 花の咲く木がいい。Nと一緒にその木は少しずつ大きくなって、いつかNが二十歳になった日に、この木はNが生まれたときにやってきて、Nと同じだけ生きてこうして花を咲かせてるんだよ。
 そういう夢を見たんです。
 私はその頃、都内に懇意にしている花屋のKさんがいたので、彼に相談しました。
 この夢を彼に語り、
「でも桜はさすがに大迷惑だと思うの。虫がついて手入れが大変だし最終的にはかなり大きくなるし。花の咲く、娘と一緒に大きくなる木。いいのを選んで送ってくれる? 予算は三万円くらいで」
 こうお願いしました。
 三万円か豪気だなと思われるかもしれませんが、そんくらい私はNの誕生を祝い倒したかったんです。
「わかった」
 Kさんは言いました。
 結果、祝いの席に届いた巨大な花の咲く木、木?を見て、ゼミの友人たちから私は大罵倒されました。
「赤ん坊の生まれた家にあんな巨大なサボテンを送ってくるなんて、なんという非常識なことをするんだ!」
「しかもなんかおどろおどろしいサボテンで、夜中にあの緑が伸びて触手みたいになってNの世話をしそうで本当に恐ろしいサボテンだった!」
「何考えてんだおまえ!」
 目茶苦茶怒られました。
 梅とか木蓮とか金木犀とかの中からいい苗を選んでくれると思い込んでいたので、「何をわかったって言ったんだあなたは!!」と私が花屋のKさんに盛大に文句を言うと、
「えー? かわいいと思ったのにー」
 Kさんは大変不満そうでした。
 このみんなから聞いた話だけでも私は充分、ごめんねN……そしてR、とは心から思ってはいました。
 そこから十八年のときが経ち、最近ゼミの親しい友人五人で、グループLINEをやっています。
 なんだか流れで、LINEでこの話になりました。
 そしたらRが、当時フィルムで撮影してピンぼけだけれど写真があるのと、その写真をLINEに何気なく貼りました。
 私はこのときに、初めてそのサボテンを見ました。
 かわいいNが生まれたお祝いの席に、私が送ったという花の咲くサボテンを十八年目にして初めて見たんです。
 ピンぼけですが、いっそそのピンぼけが救いのような実物の写真がこちらになります。


saboten.jpg


 1メートル超えです。
 私は絶句して、しばらく声が出ませんでした。
 やがてLINEに書き込みました。
「ねえ。初めて見たんだけど。みんな、私のことどう思った? 私は花屋にシンボルツリーを送ってくれって言ったのよ。あの花屋八つ裂きにしてくれるー!!」
 動悸息切れ目眩、誰か球心を私の口に入れてくらい取り乱しました。
「見たらわかったと思うけど安くもなかった。それなのに無駄どころかマイナス以外の何物でもないこのサボテン! は、花屋!!」
 私が動揺しているとRは言いました。
「そう、すごく大きかったから高かっただろうなって思った。花はもっと咲いてきれいで、祝ってくれる気持ちがありがたかったよ。Nがつかまり立ちするようになって場所を変えたら棘が時々落ちて来て足に刺さって痛かった。存在感はすごかったよ」
 Rは私からしたらもうマリア様みたいなもんですよ……。
「みんなも……よく赤ん坊の祝いの席にこんなものを送りつけた私と今まで友達でいてくれたね。こんなの東の魔女のすることよ。みんな友達でいてくれて本当にありがとう。こんばんは東の魔女です。このサボテンを送ったせいで、Nは若干ふじょしになってしまったのかな……」
 私が一人で十八年目の大反省大会をしていると、しばらくしてRが書き込みました。
「Nにそれ言ったら、若干じゃないよって言ってたよ」
 私はもうどうしたらいいのかわからない。
 そういえば花屋のKさんは、一度私の誕生日に何故か大きな花束を持って訪ねて来たことがありました。
 玄関先で母にそれを託して帰ってしまい、
「わけのわからないことをする人だな。Kさん」
 と思っていた。
 二十代の私に男性が花束を届けに来たので母は舞い上がり、
「あの人と結婚しなさいよ!」
 そう喜びましたが、Kさんには妻子がありました。
「お母さん。あの人は素敵な(見た目は良かった)人だけど、妻子がいるのよ」
 母に告げると母からは、驚きの答えが返ってきた。
「贅沢言わないの! 人間には欠点の一つや二つあって当たり前よ!!」
 私はこの母の衝撃発言の方が心に残っていましたが、今思えばKさんは、謝罪に花を置いていったのだなとサボテンの写真を見て確信しました。
 ごめん花束ごときで許せるとでも思った? 私は十八年目にしてあなたを本当に八つ裂きにしたい。
 何を考えていたの!? あなた一体何を考えてこのサボテンを赤ん坊へのシンボルツリーに選んだの!? 
 今すぐ襟首掴んで問いただしたい。
 このとき少し遠方だったRの嫁ぎ先まで、Kさんは直接この呪いのようなサボテンを届けに行ってくれました。
 当時私は大層感謝しました。その感謝した心ごと返却して。
 けれど彼はその後家族で、実家で花屋をやると言って九州に帰ってしまいました。
 今年は角館、羅臼、台湾、に旅行したい私なのですが、急遽今そこに九州が旅行候補地最上位に絶賛浮上中。
 花屋に会いに、私は今この瞬間にでも九州に旅発ちたい。
  1. 2016/03/04(金) 16:46:59|
  2. 日記