菅野彰

菅野彰の日記です

「小説Wings 冬号」の観劇エッセイ連載「非常灯は消灯中」は「朝彦と夜彦1987」/「インターネットの私と紙媒体の私」

 季刊小説誌「小説Wings」(新書館)冬号が、2/10に発売されます。
 私は観劇エッセイ「非常灯は消灯中」を連載しています。
 今回は「朝彦と夜彦1987」を取り上げました。
 え? 自分で台本書いた芝居、観劇エッセイの題材にするの? すごくない? それ。
 と、思われた皆様、ええ私はとても厚顔。
 上演前は全くそんなことは考えられませんでしたが、観劇したらもうこの舞台の上で自分がしたことは文字書いただけで、作ったのは演出家さん役者さん舞台監督さん音響さん照明さん、たくさんのみなさんだと思ったのと、自分が関わってなくてもこれは私は観ていたら取り上げる作品だと思えました。
 また、原作者としての気持ちや、内側から感じたことと一観客としての気持ちと、合わせて書ける今後なかなかない機会で、もしかしたらそれはおもしろい回になるのではと「朝彦と夜彦1987」を選びました。
 今回は大増ページということで、19ページ書かせていただいています。
 雑誌は完売すると増版されることがほとんどありません。そしてこの連載は今のところ、単行本になる予定は一切ありません。もし確実に入手なさりたい場合は、信頼できる書店でご予約をお願いします。
 ご購入いただくに当たりいくつか注意点と、この機会にインターネットの私と紙媒体の私は若干違いますという話を、織り交ぜてさせていただけたらと思いますので、おつきあいいただけますと幸いです。

「非常灯は消灯中」は、毎回同じ書き出しです。
「 既に終わった舞台を、思い切りネタばれしてオチまで語ってしまう舞台観劇エッセイです。ネタばれしないで語りたいと考えましたが、全く無理でした。
 だからもしタイトルの再演、DVD等を待つ方は、ここは読まないように要注意だよ!
 毎回この書き出しで行きます。
 今回の要注意は、「朝彦と夜彦1987」(2015)。」
 今回もこのような書き出しになっております。
 ネタバレ注意ということです。
 本文中でも明言していますが、今回の上演は撮影されていないので、今後DVDになることも放送されることもないです。
 ただ、今後絶対にお見せできないかというと、絶対にないとは断言はできません。私がサインした契約書は、そういう契約書でした。言えるのはこのくらいです。
 先日放送された中屋敷法仁さんの番組に初演キャストが三人出演したものを私も拝見しましたが、みなさん同じメンバーで再演したいとおっしゃってくださいました。私もそれはとても観たいです。
 ですが今後仮に再演があったとして、役者さんたちにお気持ちがあっても、みなさんお忙しいのでスケジュールが空いている保証は何処にもないです。そしてたとえば一人がどうしても調整がつかないから、なら一人だけいないというのはどうだろうと、全て違うキャストでとなる可能性もあるし(この辺は本当に客観的なただの推測で話しているだけで今は何も予定はないよ)、そんなわけで現状では何も言えないとしか私も言いようがないです。
 回りくどい。わかりやすく言うと、再演される可能性はゼロではないです。ただ仮に再演されたときに、初演キャストで再演されるのかどうなるのかは今は誰にもわからない話ですということです。
 そういうわけなので、
「でも可能性がゼロではないなら、未見だけれど死んでもネタバレはされたくない」
 という方には不向きな内容になっているので、避けた方がいいかと思います。

 もう一つ。本文中でしつこく注意喚起していますが、今回のエッセイを読んだら私の正解は読み取れてしまうかもしれません。解釈については断言を極力避けていますが、察しのいい方ならわかってしまう可能性があります。
 何度も申し上げていることですが、私の正解は本当にどうでもいいんです。
 観た方の正解が全部正解。
 自分の持っている正解に、別の先入観を入れたくないという方も、避けた方がいいかと思います。

 このエッセイはいつも、公式を通さないということを理念に続けていて今年で四年目です(今後一つだけ公式絡みの予定が入っています)。
 何故公式を通さないのかというと、観客である私と公式には、必ず何かしら解釈違いが起こります。
 私が公式と違う解釈を持ったときに公式はそれを目にしたら、
「そういうつもりではない」
 と、言わざるを得ません。しかしこれはエッセイで私の主観を書かせていただく場なので、そうするとエッセイとしては成立しなくなります。
 そういう理由で編集部と最初に公式は通さないことを決めて、やってきました。
 じゃあそんなに自由に書いているのかと言われれば、編集部の検閲が二重三重に入り、とても厳しい中書かせていただいています。
 そもそもこの連載の目的はなんなのかというと、
「良質の演劇に観客をいざなう」
 ことです。
 しかし私が何か観てえらく感動してその翌日にこのエッセイを書いたりすると、ストーリーを全部追うみたいなことになってしまうことがままあります。
 そうすると編集部からは、
「他者の著作物の権利を侵害している行為になっているのではないか?」
 と、厳しく調整を求められて、四回改稿して全部ボツになったものもあります。「ザ・ビューティフル・ゲーム」(2014)等は感動しすぎてそのまま伝えたくなり、「ならば観ろという話になりますし、作品の権利を侵害しすぎています」と何度も調整して結局お蔵入りになりました。
 私は新書館のモラルハザードの高さにはとても感謝しているし、尊敬しています。
 私も他者の権利を侵害したくはないです。
 しかしその線引きは私と新書館で完全にできることではないので、今後も、
「怒られたら謝る」
 という積極的なのか消極的なのかわからない姿勢で続けられたらと思っています。
 私の主観による激しいファントークですが、目的はその作品や役者さんに興味を持ってもらうことなので、ご本人に読んでいただくことは常に想定しないことも理念にしています。ご本人が読むことを考えるとつまらない遠慮や媚びが出て、読者さんに申し訳ないことになるかなと思います。
 今回も私はそれは例外とは考えずに、一点以外は公式の検閲を受けていません。
 その一点は私と衣装さんだけが聞いた中屋敷さんの言葉で、何故それだけ確認したかというと、中屋敷さんの演出理念に関わるプライベートな言葉だったので、解釈違いはないかそもそも公にしていいのかを確認して記載させていただきました。
 本来ならこういったことはレゴーダーで録音して書き起こしてなおかつご本人または事務所に確認を取る事項だと思い、確認した次第です。

 役者さんについても、プライバシーに関わることは一切触れていませんが、私が「観た」ままを主観で書かせていただいています。
 ご興味いただけたら、何しろとんでもなくページを取っているので、ご購入いただけますと幸いです。

 その前に。
 インターネットの私と紙媒体の私は、ちょっと違うんですという話を一応聞いておいてやってください。
 この観劇エッセイにご興味のない方も、良かったらここは読んでいただけたらありがたいです。
 何年か前から、私はインターネットに書く文章と、紙媒体に書く文章を意図して分けています。文体も違います。以前は公人には敬称をつけないことが公人への敬意だと考え呼び捨てにしていましたが、本人も簡単に目にすることのできるインターネットでは極力敬称をつけることに、その主義も変えました。
 インターネットの私は多分、紙媒体の私より何もかもがとてもやさしいです。バファリンです。やさしさでできています。
 私なりに理由があります。
 インターネットやTwitterは、誰でもワンクリックで無料で読めます。
 誰でもワンクリックで、簡単に傷つくことができてしまいます。
 不用意に人を傷つけたくはないです。強い主張のあるときは、読んだ人も自分もある程度は傷つくことを覚悟してインターネットでも書くことはありますが、それ以外のときはなるべく多くの人を傷つけない言葉を選んでいるつもりです。そうしてどんなに気をつけたとしても、それでも世界の何処かには必ず傷つく方がいる。それが言葉だと思います。だったら世界に発信しているこういう場所では、極力気をつけたいです。
 それと、この日記やTwitterは、不特定多数の方に知っていただきたいことを伝えるために書く場合があります。
 一つ前の日記「もう少しも小さくないたかちゃん」は、長文になりましたが、一人でも多くのこの情報が必要な方の元に届くことを目指して書いた部分もあるので、言葉をやわらかくすることに努めました。必要な方に届いていることを願います。

 今回の上演で私を知ってくださって、Twitterをフォローしてくださったり日記を読んでくださったりしてインターネットの私しか知らない方は、紙媒体の私に触れたら、もしかしたらですが驚くかもしれないと少し想像しました。
 役者さんについても、この日記でも思っていないことは一つも書いていませんが、たくさんの方が簡単に読めるインターネットでは書けなかった私の主観も、観劇エッセイの中には多く、忌憚なく書いてあります。
 他者を傷つけることを私は敢えては望みませんが、そのこととはまた別に、私は本にお金を出して買って読んでくださる方とは対等な関係だと考えています。
 対価を支払って本を買ってくださった方は、その本に対してどんな感想を持つ権利もその感想を発信する権利も、私につきつける権利も持っていると、私は考えます。
 ですからその対等な方に対しては、私もどんな反応が来てもそれを聞く覚悟で対等な気持ちで渡したいと思っています。
 何より対価を支払う方に、つまらないものをお渡しするのは不本意です。
 本を購入する、お金の掛かる今回のエッセイの中では、私は役者さん本人の気持ちも、役者さんのファンの方の気持ちも、慮ることをしていません。読む人のことを考えています。
 そういうものであることをご覚悟の上ご購入なさって読んだなら、もちろん私を非難する権利も生じます。
 そのときは私も、甘んじて聞きます。
 堅苦しい文章になってしまって、申し訳ありません。
 紙媒体の私はそんなにはバファリンじゃないのという話です。

 私自身としましては、ご高覧いただけましたらただ幸いです。
  1. 2016/01/22(金) 20:52:10|
  2. 朝彦と夜彦1987

「もう少しも小さくないたかちゃん」

 長く連載させていただいているエッセイ「海馬が耳から駆けてゆく」に時々出てくる、小さいたかちゃんに、先日会って来ました。会って話すのは少し久しぶりでした。
 エッセイによく登場していた頃のたかちゃんは大学生で、埼玉の私の実家に下宿していました。
 もしそんな小さいたかちゃんのことを覚えていてくださる方がいらっしゃったら、私と同じに、驚かれるのではと思います。
 長くなるような気がしますが、おつきあいいただけたら嬉しいです。

 小さいたかちゃんとエッセイの中で書いているのは、たかちゃんの上のお兄さんとたかちゃんの名前が一文字違いなので、大きいたかちゃん小さいたかちゃんと分けて書いていました。
 それだけでなくたかちゃんは、15人いるいとこの一番下の子で、4人兄弟の中でももちろん末っ子です。その4人兄弟も、一番上の兄とは15歳、大きいたかちゃんとも7歳離れています。スーパーエリート超末っ子です。
 たかちゃんは私が10歳のときに、突然生まれて来ました。そんな感じでした。何しろ上のたかちゃんとも7歳離れてますから、唐突に生まれて来ました。
 私は丁度、父が亡くなってばあちゃんちの近くに母と弟と引っ越して、よくたかちゃんと遊んでいました。スーパーエリート超末っ子たかちゃんは、子どもの頃からものすごく人に愛される才能を持っていたと思います。私はたかちゃんが可愛くて可愛くて、歩くようになってからは自転車の幼児用の前カゴのところにつける椅子に乗っけて、散歩に行きました。遠くに行けば行くほどたかちゃんが喜ぶので、いつもたくさん自転車で走って、帰ると心配を掛けていて大人に叱られたりしていました。
 たかちゃんが物心ついたときには一番上のお兄ちゃんがもう大学生だったので、たかちゃんが小学生くらいのときに話していて驚くべきことに気づいたのにも忘れられません。
 兄の話をたかちゃんとしていて、私は何かがおかしいと思いました。
「ねえ、たかちゃんはあんちゃ(たかちゃんの一番上の兄)のことを、なんだと思ってるの?」
「じいちゃんの子ども」
「……!! あんちゃはたかちゃんの一番上のお兄さんだよ!」
「え!? 嘘ー!!」
 兄はもう盆と暮れくらいしか帰って来ない遠い人だったので、たかちゃんは長いこと実の兄を叔父さんだと思っていたのです。
 私が高校生のときたかちゃんを駄菓子屋さんに連れて行ったら、
「お母さんとそっくりだなあ」
 と、たかちゃんの母親に間違えられました。
 私の中ではたかちゃんは、そんな頃でいつまでも止まっていました。

 たかちゃんはお年寄りにも、子どもにも本当に愛されます。
 そのたかちゃんが叔父だと思い込んでいた兄の娘達はたかちゃんが大好きで、幼い頃、
「たか兄ちゃんと結婚するの!」
「あたしがするの!」
 と姉妹喧嘩をしていました。
 通りすがりの残酷な大人、すなわち私が、
「たかちゃんはあんたたちの叔父さんだから、結婚はできないんだよ」
 そう教えると、姉妹は声を上げて泣きました。
 あのときはごめんね……。

 私は15人いるいとこたちのことを日々考えるわけではないですが、たかちゃんとその兄弟とは本当の兄弟のように育ったし、私は独り身なので、自分の家族を持ったいとこたちよりはまだ彼らのことを考える時間があるかなと思います。
 たかちゃんのことも、時々考えていました。
 愛される才能を持ったたかちゃんは、少し掴み所がないような気もしていました。
 大勢の大人たちの中に生まれて、子どもの頃からみんなに愛されて、でもわがままもあまり言わず、人の気持ちに良くない触り方をしない子だったと思います。
 家族にとても愛されたけれど、高校生で野球部の強いところに行きたいと寮のある高校に入って実家を出て、大学ではうちに下宿して、そのまま東京で介護士の仕事を始めました。
 たかちゃんの父親である叔父自身は経営者だったので、たかちゃんが介護士になると言ったときに大賛成はしていなかったのを覚えています。
 男ならもっと自分を試すような仕事があるのではと叔父が言っていたときも、たかちゃんは困ったようにただ笑っていたような気がしました。
 私にはわからないけれど、たくさんの家族、人に囲まれて、たくさん愛されたたかちゃんには、たかちゃんなりの何かもしかしたら苦労や思いがあったのかななんてもし聞いたりすると、
「そんなのなんにもないよー」
 そんな風にたかちゃんは笑いそうです。

 何年か前に、長年の友人である月夜野のお父さんが、デイサービスを利用し始めました。
 そのとき話を聞いていて、
「あ、そこたかちゃんの勤め先じゃないかな?」
 そう言って名前を教えると、月夜野のお母様がたかちゃんを訪ねて行ってくださいました。
「のんちゃん(私です)のいとこさんとはとても思えないわー! 明るくて朗らかでもうみんなたかちゃんが大好きよ!」
 月夜野のお母様には先日も、
「痩せなさい!」
 と言われまして、時折実の母並に遠慮のないおつきあいをさせていただいております。
 何年か前から、月夜野のお母様はボランティアを始めました。ここからは、Kさんと表記します。
 Kさんはラジオ深夜便を聞いていて、「傾聴ボランティア」というものがあると知りました。
 伴侶に先立たれた独居老人、被災者など、独りで悲しみの中に過ごしていらっしゃる方の嘆きを、ひたすら聞く。そういうボランティアかと思います。
 とても行動派のKさんは、以前旦那さんがお世話になったデイケア施設の系列であるグループホームが近所にあるので、そこに入居しているお年寄りのために傾聴ボランティアができないかと訪問して相談しました。
 そこで対応したのが、たかちゃんだったそうです。
 時が経っていたので、お互い最初は気づかなかったそうです。
「傾聴ボランティアは確かに必要ですが、悲しい話を聞き続けるのはKさんの負担が大きいかと思います。何か楽しいことをみんなでするようなボランティアはどうでしょう? 何か趣味や特技があったらよかったら教えてください」
 Kさんはたかちゃんにそう言われて考え込んで、合唱サークルに入っていることを教えました。
「じゃあみんなで歌いませんか?」
 たかちゃんの発案で、合唱サークルの方も誘ってグループホームのお年寄りと月に二回歌うことになり、最初の歌集はたかちゃんが手作りしたと、この間Kさんに見せてもらいました。
 そこから数年、私が月夜野の家に遊びに行くと、いつもKさんはたかちゃんの話をしました。
「のんちゃんが来たわって言うと、そんな近くまで来てるなら遊びに来てっていつも言うのよ。行きましょうよ」
 毎回言われましたが私は、
「そういうこと言う子なの。かわいがられキャラなの」
 そんな風に言って、取り合いませんでした。
 年末に、たかちゃんの母親である叔母が体調を崩して、その話を聞いている最中に叔父がお腹が痛いと言いました。
 私はばあちゃんにお花を上げて叔父とお茶を飲んで帰ったのですが、ノロウイルスなのではと気に掛かって、近くに住んでいる大きいたかちゃんに様子を見に行ってとメールをしたつもりでした。
 ところが何しろ名前が一字違いなので、間違えて小さいたかちゃんにメールをしてしまい、遠くのたかちゃんを心配させる結果になってしまいました。
 そのメールのやり取りの中で、
「のんちゃんKさんのところに来てるなら、ホームに遊びに来てよ」
 と、たかちゃんが書いてきました。気軽な文章でした。
 たかちゃんは今そのグループホームのホーム長で、この間会報をKさんに見せてもらったので私は写真に撮って叔父と叔母に見せたところでした。
 二人はとても感慨深そうで、たかちゃんが介護士になるときにもしかしたらあまり賛成ではなかったのかもしれない叔父が、
「あいつはすごい」
 と呟きました。
「最初から自立心があった。高校も大学も就職も全部自分の考えで一人で決めてすぐに家を出て行って、親を頼ることもなかった。あいつのことはわからないけど、あいつはすごい」
 叔父がたかちゃんをそう称えて、叔母は、
「あんなややがなあ」
 と言いながら、ホーム長としてのたかちゃんの写真を愛しそうに眺めていました。
 「やや」というのは、赤ちゃんという意味です。
 たかちゃんはもう二児の父です。
 けれど私も叔母に、「ややが、すごいよね」と、笑いました。
 間違いメールをしたのでなんとなく観念して、私はKさんと一緒にたかちゃんのホームに歌いに行くことにしました。
「何を歌うんですか。練習していきます!」
 Kさんに言うと、そんなにはりきらなくていいと笑われました。
 その合唱ボランティアの日はたかちゃんは休みだったのですが、私に会いに来てくれるとのことでした。

 私は多分その日まで、たかちゃんのことを、「やや」だと思っていました。
 自転車に乗せて遠くまでとせがまれて一緒に夕方のあぜ道を走った、たかちゃんのまま覚えていました。
 ホームに行くと、たかちゃんはすぐに出て来てくれました。
 何も変わってません。
 忙しいのか少し顔色が良くないことが気になるくらい。
 私はたかちゃんとは少し話してお土産を渡して、Kさんたちと歌おうと思っていました。
「いとこののんちゃんです」
 職員さんに紹介されたので、
「いつもお世話になっております」
 そう頭を下げるとたかちゃんは、
「なんか親が来たみたいで恥ずかしいよ」
 と笑いました。
 ボランティアの方と接する時に、
「それはわたしがしますね」
 と丁寧にゆっくり話すたかちゃんに、少し驚きました。
 すぐ歌が始まったのですが、「のんちゃん」とたかちゃんに呼ばれました。
 いつもと何もかわらないけれど、私が覚えているより静かで小さな声でした。
「うちはほとんど認知症の方のグループホームなんだ」
 二十人いない入居者の方々と、Kさんたちが歌う姿を眺めながら、たかちゃんが言いました。
「重度ではなさそうだね」
 認知症の方もいるのかなとは思ったけれど、みなさんがとは気づかなかったので、軽い方々なのかなと呟きました。
「重いか軽いかは関係ないんだ。認知症になるとね、ご家族が受け入れられなくなることがあるんだよ。それはご家族が悪いんじゃないんだ。家族だから怒ってしまうことってあるんだよ」
 聞いていて、それは私もわかる気がしました。
 ばあちゃんの亡くなるまでの二年くらい、ばあちゃんは年齢なりにぼんやりしていました。同じことを何度もずっと言ったりもしました。
「ごはん炊けたか?」
 ばあちゃんは、家族がちゃんとごはんを食べることを亡くなるときまで気に掛け続けたので、私はばあちゃんのそばにいると何度もそれを聞かれました。
「今炊いてるよ。ばあちゃん」
 私は百回でも同じようにこの質問にこうして返事ができたけれど、それは私は孫だし、ばあちゃんと暮らしてはいなかったからで、実の親だとまたきっと違うのだろうとは最近実感していたことでした。
「でもね、怒られると認知症はストレスで早く進行してしまうんだ。だから、ご家族のためにも、ご自身のためにも、ここにいる方がいいこともあるんだよ。あとね、独り暮らしの方。ボヤを出してしまったり、包丁でうっかり指を切ったりしてね。もう独りにはしておけないと行政が判断した方に、ここに来ていただくんだ」
 段々と私は、たかちゃんが、私が思ったように子どものころのような気持ちで、「のんちゃん遊びに来てよ」と言ったのではないと気づきました。
「でもね、ここでは、そういう方にももし料理がしたければ火も包丁も使ってもらうの。今までしてきたことと同じことを、俺たちがそばで見守って危なくないように気をつけて、普通の生活をしていただくんだよ。ごはんも毎日、みんなで作る。すごく特別なことじゃなくて、普通にね、今まで生きてたのとなるべく同じ暮らしをしてもらって過ごしたいんだ」
 語るたかちゃんの声はとても穏やかで、たかちゃんは、知って欲しかったんだと私は今更気づきました。
 私に、というのとも違うかもしれません。
 たかちゃんは私が文筆業なのは知っているけど、私のペンネームも多分知らないし、こんな風に私を通して多くの人に知ってもらいたいわけでもなんでもないと思います。
 誰にでも、訪ねてくれた人に、知って欲しい。
 特別にというのではないのだと、そう感じました。
「テレビとか新聞とか、介護の現場は辛いニュースが多いかもしれないけど、いろいろなんだ。本当は、いろいろなんだよ」
 静かにたかちゃんは話しました。
「ここは地域に恵まれててね、Kさんみたいなボランティアの方も来てくださる。近くに敬老施設もあって、招いてもらったりしたらみんなで行くんだ。普通に散歩もするし、お花見もする」
 壁には、毎月作っているホームの写真の入った新聞が貼られていて、入居者の方と職員さんで出掛けた様子が写っていました。
「一泊旅行にだって行くんだ。ほら、ね」
 みんなで温泉に行ったときの写真を、たかちゃんは指差しました。
 途中、おばあさんが一人、合唱の中から抜けて歩いていらっしゃいました。
「どうしたの? ○○さん」
 ひとときもたかちゃんは、みなさんから目を離しません。
 目を離さないというか、たかちゃんが言った通り、見守っていました。
「私なんかいない方がみんな楽しいから」
 認知症の方の症状の特性かと思うのですが、そんなことをおばあさんはおっしゃいました。
 たかちゃんは両手でおばあさんの背中を抱いて、
「そんなことないよ。どうしてそんなこと言うの。みんな一緒に歌いたいよ。みんなで歌おうよ」
 決して、大きな声はたてず、囁くように根気よく繰り返して、おばあさんをゆっくりと輪の中に帰しました。
「ご家族だと怒ってしまうことも、俺たちはやっぱり家族ではないから怒ったり誰もしないで済むんだよ」
 そんなことを、たかちゃんは言いました。
「なんか、すごいなあ」
 私が呟いても、たかちゃんは、けれどほかの形を絶対に否定はしません。
「本当にいろいろなんだよ。ここはこういうところ。そうじゃないところもある。でもそれも間違いとか正しいとかじゃないんだよ。いろいろなんだ、介護も」
「私はここに入れた方は、幸せに見えるけど」
 思慮もなく、見たまま、私は言いました。
 それもたかちゃんは、肯定も、しませんでした。
 私の知らないそれぞれの事情がきっとたくさんあるのだろうけれど、それを語ることもしませんでした。
「認知症になってもできれば最後の日まで、特別じゃなくて普通に生きられるように。うちはそのお手伝いができたらいいなって思ってて、Kさんみたいな方たちに恵まれてね。Kさん、自分で売り込みに来たんだよ」
 Kさんと再会したときのパワフルさを語って、たかちゃんは笑いました。
「医療が、うちは弱い。看護師さんがいないから、注射や胃瘻や点滴が必要になったら入院していただかないといけない。でも本当はお家で亡くなるみたいに、ご家族と一緒に最期まで見送れたらそれがありがたい」
 たかちゃんはまだ、最良の答えを探し続けているようでした。
「たとえば、お母ちゃんがね」
 自分の母親のことを、たかちゃんは口にしました。
「お母ちゃん、年越しに蕎麦を打つじゃない?」
 じいちゃんが亡くなってから、それまでじいちゃんの仕事だった年越しの蕎麦を打つのは叔母の仕事になりました。
 叔母が蕎麦を打つようになって、三十年近くになります。
「もしお母ちゃんがここにいたら、お母ちゃんは今まで通り、年越しに蕎麦を打てるんだよ」
 グループホーム、老人ホームに、ネガティブなイメージを持つ方は多いと思います。
 自分の親を自分で見なくていいのか、世間は自分の親をホームに託す自分をどう思うのか、何より親はそれを辛いと思うのではないか。
 誰でも普通に考えることかもしれないと思います。
 たとえ自分が介護の仕事をしていたとしても、それでも自分の親のことは別に考えるのが普通かと私は思います。
 でもたかちゃんは、今自分が勤めているこの場所に、大好きな、大切な母親がいても、母が楽しく幸せに過ごせるんだよと、私に普通に語りました。
 自分の職場が誇らしいというのとも、違ったと思います。
 普通の、こういう人の暮らしの形もあるんだよ。
 そんな話でした。
 叔母の打つ蕎麦はとても美味しくて私も大好きですが、今回たかちゃんと話していて初めて、叔母自身も蕎麦を打つことを楽しんでいるのかなと思いました。
 たかちゃんは毎年、年越しに実家に帰れるわけではありません。今回は帰れていません。
 私が叔母のノロを心配したのは年末で、それで体調が優れなかったのか叔母はこの年越し、ばあちゃんが亡くなった年以外多分初めて、蕎麦を打ちませんでした。
「もう打てないって、買った蕎麦をくれたの」
 母がそう言って、叔母が買ったという蕎麦を元旦に茹でました。
 たかちゃん、お母ちゃん今年、蕎麦打てなかったよ。
 声にすることはできなくて、もしかしたら来年は叔母も蕎麦を打つかもしれないしと、私はたかちゃんにはその話はしませんでした。
 ここが入居者の方の場所で、ここはデイケアの方の場所でと、ホームの中を案内してくれました。
 お互いの親が歳を取ったことを案じる話をしながら、Kさんは本当に元気だと二人で笑いました。
「でもね、Kさんには本当に助けられてるけど、いつかKさんが少しでも疲れを感じるようになったらそのときまでで充分ありがたい。そうやって無理のないようにたくさんの人に助けられながら、ここはこんな感じで過ごせてるんだ」
 合唱の場所に戻って、私とたかちゃんも手を叩いて少し歌いました。
 私はふと、ずっと不思議だったことをたかちゃんに話しました。
「ばあちゃんが、居間のソファからほとんど動かなくなった最後の何年か」
 私は十年前に、この都内のホームの近くから、会津に転居しました。
 都会暮らし田舎暮らし、どちらもいいことも良くないこともそれぞれ違います。慣れるのには時間が掛かりましたが、一つ、十年前に会津に移って良かったと思っていることがあります。
 それは、大好きなばあちゃんの最後の何年かを、そばで過ごせたことです。
 大人になってなかなか叶うことではない贅沢をさせてもらいました。
 介護は全て、たかちゃんのお母さんである叔母がしました。
 要介護になった親は、嫁ではなく実の娘に介護を求めるとよく聞きますが、ばあちゃんは全く違いました。
 ばあちゃんには私の母を含めて四人の娘がいて、近所にそのうちの二人が住んでいます。
 けれどばあちゃんが常に求めたのは、嫁という立場であった、叔母でした。叔母の姿が少しでも見えなくなると、ばあちゃんは不安そうでした。いつでも叔母を心から信頼していました。
 ばあちゃんと叔母の関係は、特別なものであったように私は思います。
「その何年かに、何度かお母ちゃん(たかちゃんのお母さん)が、デイケアのことを考えたの」
「そうだったね」
 ばあちゃんにケアマネージャーさんがついたとき、たかちゃんは東京から話し合いに同席しに来ました。
 そのときのことも覚えていますが、たかちゃんはとても、人を尊重します。
 ばあちゃんが亡くなるとき病室で意識が戻らない日々に、大きいたかちゃん、大きいたかちゃんの奥さん、兄の奥さんたちが、病室に訪れる看護師さんにたくさん質問をしました。皆、何かしらの医療や介護に近い専門職です。
 ばあちゃんに繋がっている管がなんなのか、酸素は充分なのか、たくさんのことを尋ねました。
 私はまるで知識がないのでそれを黙って聞いていましたが、もしかしたらばあちゃんの病室は、病院にとって厄介な部屋だったかもしれません。
 私はでも、このとき必死になってくれたいとこやいとこの奥さんたちにも心から感謝しています。みんな本当に、少しでもばあちゃんがいてくれるように必死で、このときのことはそれこそそれぞれが誰も間違っていなかったと私は思っています。
 ただ、たかちゃんは東京から日帰りでばあちゃんに会いにきたときも、ばあちゃんにだけ声を掛けて帰りました。
 ばあちゃんのケアマネージャーさんと話したときも、決して、同業の方の気持ちに障るようなことは言わなかったと思います。
「お母ちゃんはきっと、デイケアに行ったらばあちゃんの時間がもう少し楽しく豊かになって、ばあちゃんももっと元気になるって思ったんだと思う。明日からデイケアなんだって、ばあちゃんのために新しい靴や新しい服を用意して、お母ちゃんはとても気持ちを弾ませて見えたの。私には」
 その頃私はまめにばあちゃんに会いに行っていたので、二度だったか、叔母がデイケアの準備をするのを頼もしく眺めていました。
「でもばあちゃんは、一度行くともうそれきり行きたくないと言って、結局デイケアに通わなかった。その度に、お母ちゃんが気持ちを落として見えて、それが切なかった。私がずっと不思議なのは、ばあちゃんが何故あんなにデイケアを嫌がったのかなの」
 ばあちゃんの人柄については、エッセイ「女に生まれてみたものの。」などで書かせていただいています。
「Kさんほどではないけれど、ばあちゃんはとても社交的で行動的な人だった。婦人会の会長も長くやったし、観音講というのがあってね」
 このことも「女に」で詳しく書いていますが、会津には観音講という習慣があります。
 会津は封建的な土地柄で、葬式には女は出ず台所をして、初七日に歌詠みという形で初めて女だけでお弔いをします。その歌詠みを、会津三十三観音を巡りながら女性だけでするという習慣が長くありました。
 これは、家から出られない旅行などとてもできない女性を婦人会が観音講という名目で連れ出して、一年にたった一日か二日、女性だけで伸び伸びと過ごすという時間でした。ばあちゃんは一時期は五十人以上という女性をまとめて、出さないという家も説得して連れ出して、何十年もそのまとめ役をしていました。
「今年で最後なんだ」
 まだばあちゃんが立ち歩けた八十代のときに、私はその五十人以上の女性が晴れ晴れとした顔で写っている白黒の写真を大切そうに風呂敷に包むのを見ていました。みんな体がきかなくなり、亡くなった人もいて、この写真に写っている人はもう何人もいない。今年が最後の観音講だとそう言って、旅立つばあちゃんを見送りました。
「そういう、とても社交的で活動的な人だった。気持ちが外に向いている人だった。なのにどうして、あんなに頑なにデイケアを拒んだんだろうって、それがずっと不思議だった」
 私はこのことは誰とも話したことはないのですが、もしかしたらたかちゃんにはそれが何故なのかわかるのかもしれないと思って、訊きました。
「ばあちゃんの気持ちは、ばあちゃんにしかわからないよ」
 当たり前のことを、たかちゃんは言いました。
「そうか。そうだね。もう、聞くこともできないね」
 でもばあちゃんは尋ねられたいことではなかったのかもしれないとも、たかちゃんの言葉を聞いて初めて気づきました。
「生きたように、人は老いるわけではないね」
 これから先自分にもどんな時間が待っているかは、想像がつかないことも、知りました。
「そうだね」
 穏やかに笑うたかちゃんに、会津のお菓子を渡して帰りました。
 明日、ばあちゃんに花を持って、たかちゃんのことを話しに行こうと思います。
 ばあちゃんに花を上げに行くと、まだ幼い大きいたかちゃんの下の娘達がたまに、
「のんちゃんはどうしてお花を持ってくるの?」
 と、尋ねます。
 その度に叔母が、
「ばあちゃんに持って来てくれたんだよ。みんなのばあちゃんじゃなくて、のんちゃんのばあちゃんだよ。のんちゃんはばあちゃんが大好きだったんだよ」
 そう、自分の孫たちに丁寧に教えます。
「のんちゃんは、のんちゃんのおばあちゃんが大好きだったの?」
「そうだよ。たくさんかわいがってもらったんだよ」
 この子たちはもう、ばあちゃんのことを知らないのだなあと思いながら、私もいつもばあちゃんの話はしません。
 明日も、聞かれてもばあちゃんの話はしないと思います。
 お仏壇に花を上げて、ばあちゃんとだけ話します。
 ばあちゃんの一番下の孫の、ばあちゃんがとてもかわいがった小さかったたかちゃんが、もう少しも小さくないよと、ばあちゃんに伝えます。
 最期の病室に、東京から車を走らせてばあちゃんに会いに来たたかちゃんは決して泣かずに、
「ばあちゃんはすごくがんばってる。すごくがんばってるね」
 ばあちゃんの頬を丁寧に何度も何度も撫でながらそう笑ったのを、思い出しました。
 ばあちゃんはたかちゃんにいっぱい笑顔で褒められて、きっとすごく嬉しかっただろうと、昨日見たようにその日のことを思い出しました。




 最後に、蛇足ですが私がこの日記を書いたのは、ただたかちゃんのことを語りたかったからというのもあります。
 もう一つ、理由があって、私はたかちゃんの勤めているようなホームの存在を全く知らなかったので、もし同じように知らない方がいらっしゃったらお伝えできたらと思いました。
 様々、家庭家庭で、考えや経済的な問題や、それぞれの愛情があると思います。
 けれどもし認知症のご家族とともに生活をしていて、日々辛いことが増えて、これからどんどん辛くなるのか、いつまで続くのかと気持ちが追い詰められている方がいらっしゃったら、可能性の一つとしてこういうホームもあるとお伝えできたらと思いました。

 長い日記におつきあいくださって、ありがとうございました。
  1. 2016/01/16(土) 21:25:17|
  2. 日記

「謹賀新年」/「小さな君の、腕に抱かれて」(新書館ディアプラス文庫)発売/「仙台に行ったらキリンビール仙台工場を訪ねよう」

 新年です。
 5日から私は新年を迎えました。
 今年もよろしくお願いいたします。

 9日に、「小さな君の、腕に抱かれて」が発売されます。木下けい子先生の挿画が本当にきれいです。
 私としては是非、特典ペーパーを入手して頂きたい。詳しくは2つ前の日記や、新書館を覗いてみてください。
 新年のお供に、読んでやってください。

 私の仕事納めは、5日になりました。
 初めて小説の原稿をお渡しすることになる担当さんなのですが、デビュー当時からのおつきあいで本当に根気よく声を掛け続けてくださって、私もなんというかとても自分で満足な原稿をお渡しできて幸せな仕事納めになりました。
 本当は4日の晩には終わっていたのですが5日に見直していたら夕方になってしまって、5日から遊びに来た友人を一時間くらい待たせてしまった。
「ごめん人として掃除させて……買い物してきて……」
 関西から来てくれた友人に買い物をさせまして、どんこで鍋をして曙酒造の一升瓶を開けました。
「『曙 初しぼり 限定 大俵引き 新酒生酒 おりがらみ 純米』……情報が多すぎる」
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 これがものすごく美味しかったです。
「脱稿おめでとう!」
 祝ってもらって乾杯。
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 魚屋さんで「どんこ」に出会えることがあったら、鍋にするといいです。本当に美味しい。

 さて私と友人には、遅い正月の目的がありました。
 映画「グラスホッパー」の蝉がとても美しかった山田涼介さんを見まくる。「左目探偵EYE」とか見ちゃう。ずっと傾城の美少年を見続ける。
 そんな三泊四日になる筈だったのですが、私がふと観た「いただきSUPERハイジャンプ」のせいで予定が若干変更になりました。
 山田涼介さん見たさに観ていたその番組で、なんか牛タンを焼いていた。
「牛タンめっちゃ美味しそう……仙台に行きたいなあ。仙台……」
 そして調べると、宮城県ではMOVIX利府でまだ「グラスホッパー」が上映中だと判明。
「7日仙台に行かない? 牛タン食べて『グラスホッパー』観てお鮨食べようよ」
 友人に持ちかけると、友人も行きたいとのこと。
 7日は仙台でホテルを取って、5日と6日はうちで過ごしました。
 なんというかですね。久しぶりに若手のジャニーズアイドルを真剣に見続けたのですよ。
 熟女が二人で何を見ても、
「かわいい」
「かわいい」
「かわいいね」
「すごくかわいい」
 言い続けるわけですよ。
 しまいには、
「世界の猫歩き観てるみたいじゃない? あたしたち今。右に動いても左に動いてもかわいいしか出てこない」
 猫とかモルモットとかウサギの映像ずっと見てるのと変わらんなと。
 これじゃいかんと翌日はアクティブに、「はせ川」でラーメン、私の両親が結婚式を挙げた後全焼した「伊佐須美神社」で初詣、会津美里町本郷焼「樹ノ音工房」で絵付けと買い物。
 そのまま東山温泉「瀧の湯」に行きました。
 日帰り入浴させてもらって、もう、瀧のそばの露天風呂から全く動けない。
「極楽浄土……」
 二時間ぐらいお風呂に入って出ると丁度、昨日原稿をお渡しした担当さんから携帯に電話が入りました。
 とても嬉しいありがたい言葉が聞けて、なんていい日なんだろうと幸せを食みました。
「ねえ、あたし死ぬんじゃないかな? ずっと楽しい。ずっと幸せ。なんて素晴らしい年明け。事故にでも遭うのでは」
「なんて幸せに慣れてないんだ。死ぬならあたしが帰ってからにしてや」
 死ぬんじゃないかと言い出した私の運転で友人は酒店で日本酒を購入して、夜は「弦や」で日本酒三昧。
 帰宅後、またずっと「世界の猫歩き」です。
 「左目探偵EYE」とか見ながら熟女が二人で、
「かわいい」
「かわいい」
「動いた。かわいい」
「喋った。かわいい」
 ずっともう「かわいい」しか言わない。
 このままではいかんと、翌朝会津若松から高速バスで仙台に行きました。
 この辺りで私は、自分の脱稿後の脳内麻薬が切れ始めるのを感じました。
「なんか……真っ直ぐ歩けない」
 気づくと肉体はボロボロであった。
 しかし到着してすぐに、「一隆 本店」の牛タン定食チャージ。
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 美味しい。とにかく美味しい。
 三越でバーゲンに参戦しようとするものの三越のバーゲンは始まっていなくて、「ずんだ茶寮」でずんだを食べて利府に移動しました。
 知ってた。
 車社会なのは知ってた。歩いて行く感じじゃないのは知ってた。
 でも言いたい。
 広すぎるよ利府!
 駅から映画館までは徒歩15分くらい。
 しかし映画館が見えてから、何処から入ったらいいのかわからない。
 そして広大な敷地の中に、映画館、ドラッグストア、ショッピングモール、ファミレス、そして広すぎる駐車場。
「あたし腰が限界……ドラッグストア行っていい……? 湿布買いたい」
 言い出すのを躊躇うほど、駐車場の向こうのドラッグストアが遠い。
 友人が快諾してくれて湿布を買って、よろよろ映画館に入る。
 この映画館の中がまた広すぎる。
 12のスクリーン。湿布を貼るとめにトイレに行くと、それが果てにある。
 トイレを出ていくつもの映写室を通り越しながらかなり歩く。角を曲がるとまだ映写室が並んでいる。
 奥から二番目の映写室に入ると、またその中がすごく広い。
 見やすいかと一番後ろの席を取ったので、その席の遠さを見上げて私は絶望に膝をつきたくなるくらい何もかもが広すぎる利府。
「あまりの広さに笑けてきた……」
「あたしも……」
 二人で「広い、広すぎる」と呟くうちに「グラスホッパー」が始まり、ニコニコしながら堪能。
 本当は私たちは翌日も「グラスホッパー」を観ようかと思っていた。
「『グラスホッパー』は観たいけど、この映画館にもう一度来るのが無理……」
「全てが広すぎんねん。利府」
 広すぎる利府に別れを告げて、仙台に戻り「三日月」で東松島の生牡蠣などを堪能しました。
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 翌日は「キリンビール仙台工場」を見学に行くことに。
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 これは1日1缶呑んでも2500年くらい掛かるほどビールが入ってるタンクだそうです。
 この工場見学がですね。
 とても楽しかった! 行った方がいいよ!
 一時間ぐらい掛けて、とてもかわいらしいものすごく勉強家の案内嬢が工場内を見学させてくれます。
 あ、キリンビールの工場は全国各地何処でも見学に行くと、キリンビールの工場でしか観られない嵐のメッセージが観られるよ。 私と友人はなんだか相葉ちゃんの映像に爆笑しました。
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 上のものが最初のラベルだそうです。
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 これは、戦時中英語が一切使えなくなったときのラベル。
 震災の折津波が押し寄せて工場のみなさんが屋上に避難した様子や、大きなタンクが4つも倒れたものの工場も再始動して、地域産業の復興にもキリンが力を尽くしていることなどを知りました。
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 最後は生ビールを三杯呑ませてくれます。
 仙台工場でしか呑めない「仙台づくり」にはお米が使われているそうで、とても美味しかったです。
 大満足で仙台行きの電車に乗り、
「あの案内してくれた女の子、研修生なのにすごい優秀だったね」
 私がそう呟くと、友人は名札に「研修生」と書いてあったことに気づかなかったそうで突然、
「あの子……うちで働いてくれんかな……」
 と言い出しました。
 友人の勤め先は今少々大変で、新入社員を求めたりしています。
「あんたんとこ大阪でしょ。あの子地元の優良企業に就職したばっかりだよ……やめてやれ」
「でもあたしはあの子が欲しい」
「いい加減仕事のこと忘れなよ……」
 友人は、美味しいけれど内装が適当な店に入れば、
「コスト問題のバランスやな……食材にコストが掛かり過ぎてんねん……」
 と、コスト問題を語り出し、百貨店が7時閉店だと知れば、
「百貨店が7時閉店ってどういうことやねん! OLが間に合わへんわ! 7時なんてどんな店でも開いてるっちゅうねん!!」
 百貨店の姿勢を問い始める。
「頼む仕事のことは忘れてくれ!」
「忘れられへん!」
 そんな私たちでお土産を買って、「北辰鮨」仙台駅一階にイン。
 日本酒を三合呑んで、海鮮に唸る。
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 この辺で私たちに限界のときが訪れた。
「今3時……7時に帰ろうとしていたけれど……もう……体力が限界……」
「知ってたで、あたしはこうなることは想像しとったで。めっちゃ強行軍やであたしら。このままやとほんまに死ぬで、物理的に」
「二時間早く帰ろうか……」
「そうしよう……」
 ふらふらしながら5時前には「楽しかったー!」と別れて、私は高速バスで会津若松へ。
 バスの中で爆睡するも、バスを降りて数歩フラフラよろけながら歩いたところで前から歩いてきた大学生風男子に、
「大丈夫ですか!?」
 と、手を伸ばされる。
「私……大丈夫じゃないようだな……」
 そのまま私は駅の近くのスーパー銭湯で二時間ぐらいぼんやり温泉につかりました。
 体力をチャージして帰宅し、お土産を広げてみた。
「キリンビール仙台工場で、明らかにテンションが上がりすぎた……」
 私のお土産の中には、何故、これ、買った、みたいなキリンのマークのジャケットが……しかもサイズがでかすぎる。
 そのくらいキリンビール仙台工場見学は楽しい。
 なんと無料です。
 脱稿した原稿は、三月くらいに本になるといいなあ。
 そんな年明けです。
 今年もよろしくお願いします。
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  1. 2016/01/09(土) 00:30:49|
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