菅野彰

菅野彰の日記です

「六年目の気持ち」

 東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りし、被災された皆様にお見舞いを申し上げます。
 3月11日です。

 自分の話で申し訳ないのですが、今の私の話です。
 六年目の私は、五年目の私より気持ちがとても落ちている。震災の件に関してです。
 最近よく「元気そうですね」と言われることがあって、言われるたびに「あ、空元気なんじゃないかな」と自分で気づく。震災の件に関して落ちてるけど、それは生活全般に及んでいるとも感じています。空元気は良くないな。

 でも、「震災のこと」が終わることは多分ないだろうし、落ちつくまでにも長い時間が掛かると思うので、そのときまでの時間の中で、こういう落ちていくときというのもきっとあるんだろうと思うようにしています。
 落ちて、またゆっくり前向きになって、やってけるのかなと。

 昨日、岩手県釜石市の友人とメールをしました。彼女は被災者の方々と多く接する仕事をしていて、
「明日を前にみんな気持ちが戻ってしまっている」
 と言ってた。

 私なんか被災らしい被災もしてないのに本当に申し訳ないなと思うんだけど(本当はこれはよくない感情だと最近痛感しています。人にはこう思うのをやめてと思いながら、でも当事者は思ってしまう)、私も昨日そういう気持ちで彼女に連絡しました。

 昨日、こちらは少し吹雪きました。
 あの日は晴れていて、もう春だと思っていたのに今日はまだまだ冬で。
 こんな気候じゃなくて本当に良かった。こんなに寒かったら、留められなかった命ももっと大きかっただろうと吹雪を見ながらぼんやり考えていて、なんだろうこの良かった探し、意味なんか全然ないなと気づいてまたぼんやりしました。

 気持ちがこういう風に落ちたことには、はっきりした理由があります。
 去年の夏に、岩手県釜石市に行って、昨日メールした友人に会いました。
 行って本当によかったとそれは今でも心から思っています。また行こうと思う。
 以前から友人とはメールのやり取りをしていて、釜石市の現状を聞かせてもらったりもしましたが、お魚が美味しいこと、雲丹が絶品で日本酒も美味しいとそんな話もしていました。
「雲丹食べに行く」
 雲丹を食べに行こうと思って、釜石市を訪ねました。
 直前になって、
「もし思い出すから辛くて無理なのでなかったら、町を案内して欲しい」
 そうお願いしました。
 彼女は快諾のメールをくれて、けれど末尾には「ごめんなさい。海には行けないので、近くまで送りますから見て来てください」と書いてありました。
 釜石市を訪ねて、彼女に会って、彼女はとても淡々とした言葉であの日のこと、現在を教えてくれました。
 正直、想像以上だったし、何もかもがまだまだだった。
 雲丹は本当に美味しかったよ。
 見て来たことを書こうと思いながら帰って、2週間後に、
「震災のことを踏まえて作られているから」
 と強く薦められたある作品を見ました。
 冒頭の方だけで私は無理だった。ぼんやりと見ていました。今思えば「無理だ」と思ったときに立ち上がれば良かったと後悔していますが、「もうこんなものが娯楽になるのか。誰もがこれを楽しんでいるのか」と力が入らなくなってぼんやりしてしまった。
 途中は直視できていなかったし、最後の言葉は聞こえて来たけれど、その言葉にも強い怒りが湧きました。
 けれどそれはもしかしたら、日本で私だけの感情なのかもというくらい同じ気持ちの人には出会わないので、本当に私だけがこの作品が無理だったのかもしれません。
 みんなが楽しんでいることに水を差したくないというのもあるけれど、私の気持ちを打ち明けたら「自粛厨」とかいう言葉で袋だたきに遭うのだろうなと想像がついた。袋だたきに遭う気力はなかった。
 間が悪いことに、その数日後に熊本で震度6の地震に遭いました。
 夜、ビルの5階にいて、体感でもかなり揺れました。
 このとき私は、震災以来初めて地震に恐怖を感じました。
 料理屋で、お店の方が「火を止めたのでしばらくお料理を待っていただいていいですか」と声を掛けてくださいました。一緒に食事をしていた方も冷静でした。
 私も昨日までこうしていたと気づいた。
 こんな恐怖をいちいち感じていたら、今熊本には暮らせない。
 生きていくために、みんな恐怖を閉じてる。
 私は五年が過ぎて、閉じていた恐怖がこのときに噴き出してしまった。
 今はちょっとした地震でも悲鳴が出てしまうし動悸がします。

 感情が爆発してしまって、私は「震災を踏まえている」と作品を薦めた友人にも、その作品を楽しんでいる何人かの友人にも、「こういう理由で私は無理だ」と打ち明けました。相手にされることはなかったです。
 誰とも共感できない気持ちを持つという孤立に、私は今までちゃんと苦しんだことがないのだとも知りました。
 大抵のことは、もし自分だけがそう感じていると思っても、私は多分「人は人、我は我」が少し得意な方だと思うので鈍感でいられた。
 この孤立は苦しく、今もそれは続いています。身近な人とも共感できないだけでなく、大多数の未知の人々とも共感できない。どうにもならない苦痛で、そのことは時々考えてしまうし、これは終わらないのかなと思うとあてのない気持ちになる。
 こういう感情を経験できてよかったというところまでは、まだ少しも辿り着けません。
 いつか同じような気持ちになっている人に出会ったときに、「わかるよ」くらい言えるようになっているといいなと願いはするけれど。

 理由もなくポジティブになれないので、気持ちは落ちていくばかりでしたが、予定していたので去年の秋に福島で呑み会をしました。これは本当に、集まっていただけてありがたかったです。
「被災地を訪ねるきっかけになりました」
 と言っていただけて、やれて良かったと思えたし、私も一番参っていたときだったので、「何かしたい」という気持ちのたくさんの方に会えたこと話せたことで大分救われました。

 でも相当やられてるな私、という自覚はあって、こういうときに無理すると良くないと思ってできずにいたことが釜石市のことを書くということでした。
 そこから私はまた歩き直しだよと思ったけど、その一歩ができずに今日になった。
 このネガティブな気持ちで書いたら、釜石市に迷惑だとも思いました。自分の怒りや苦痛に、見てきたことを巻き込んで発信してはいけないと思いながら、そこから切り離すことがとても難しかった。
 3月11日が巡ってきて、今日だからと釜石市のことを自分の感情とは分けて書き始めました。
 気持ちが戻ってしまう日だけれど、だから何ヶ月もできなかったこともしようと踏ん切れるとも思った。

 今年も、この日はこのサンドイッチ。
 よかったら去年の日記を読んでやってください。
 「いつものサンドイッチがいつもじゃなかった日々を忘れないよ/3月11日」
 この間このパン屋さんのご主人が、サンドイッチ以外のものからできるだけ卵を除いていると話してくれました。ご主人は本当は、卵が生地にも入っているパンが好きだったそうです。
「最近の子は、アレルギーが多くて。見えないけど卵が入ってたら食べられないしうっかり食べたら大変なことになっちゃうし、かわいそうだからね」
 いつまでもこのパン屋さんにいて欲しいなと思った。

 ゆっくりですが、遠い終わりのようなものに向かってまた歩いて行きたいです。

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  1. 2017/03/11(土) 14:21:15|
  2. 日記

「いつか何処かで作家志望の誰かのお役に立ちますように」

 いつか何処かで作家志望の誰かのお役に立ちますようにと一月に書いたのですが、「毎日晴天!」の担当さんに一度見ていただかないとと思ってそのまま発売の今月まで忘れておりました。
 ものすごくピンポイントな方に向けての言葉なので、お役に立つことはあまりないかもしれませんが。
 丁度今月「子どもたちは制服を脱いで 毎日晴天!13」が出るので、一応その誕生秘話的なものにもなるかなとアップしてみます。
 読み物としてお読みくださいな。
 以下を、一月に書きました。


 絶対にできない仕事、それは新人賞の選考委員だと、ずっと思っていました。
 ちなみにできないと思っていただけのことはあって、頼まれたことは一度もありません。
 引き受けてらっしゃる先生方は、本当に私はすごいと思います。
 自分でもできないと思い頼まれたこともない私は、人にものを上手に教える才能に恵まれていない。
 だがしかし、経験からくる助言くらいはできるのではと先日、ふと思った出来事があったので、全ての作家志望の方に当てはまることではないのですが、こういうこともありますという話をしてみようと思います。
 私はこのペンネームで仕事を始めて、多分今年で24年目……多分。初期の私は何処がデビューなのかも曖昧で、多分あれが最初に商業誌に自分のペンネームが載った仕事だなという記憶はあるのですが、手元にも残っていないし雑誌名も思い出せません。BLではありませんでした。
 そりゃどういうこっちゃと思われるでしょうが、それは自分の話になるのでまたの機会がありましたら。
 今回は、出版不況の昨今ハイリスクハイリターンのハイリスクが高まるばかりの商業作家に、それでもなりたい方へ、もしかしたらお役に立つかも知れない経験談です。

 先日、Twitterで友人漫画家の最初の商業誌カラーを覚えていると私が言ったことから、その友人が何故その最初の商業誌カラーを私に電話で報告してくれたのか、理由を友人が語ったことにより私も思い出しました。お互いツイートしていますし、お名前を伏せる理由は特にないですが、ツイートは流れるけど日記は残るものなので伏せておきます。
 二十年前、私が友人を某誌に紹介して、そこでカラーが決まったので友人は報告の電話をくれたのだなと、やり取りの中から私も思い出しました。
 その友人のツイートを見て、私と彼女には、その紹介の件について認識の極端なずれがあることに気づきました。
 今、大人気作家である友人が、「デビュー当時で仕事もなく実力もなく」というようなことを言っていて読者の方も驚かれたと思いますが、彼女が言ったような理由で私は彼女を某誌に紹介したのではないのです。
 もちろん二十年経っていますから、技術的にも情操的にも年月分の進化はあるでしょうけれど、当時も充分彼女は魅力的な作品を描いていたし、精力的に作品も描いていました。
 そして、私は実は彼女の他にもたくさんの友人を、様々な出版社に紹介して、デビューしてもらったりステップアップしてもらったりしていました。
 私はもしかしたらそういうこと疎そうに見えるかもしれません。他者からの私のイメージはわかりませんが、当時はこうして彼女を某誌に紹介したことさえ今ではうっかり忘れるほどの友人たちを、次から次へとあっちゃこっちゃに紹介していました。
 理由があります。
 あ、一応言っておきますが、完全なる趣味でそれはやっていました。何処からも謝礼はいただいていませんし、ブローカーだったわけでもなんでもないです。
 私はBLではない仕事でBLの夜明け前に商業誌の仕事をしていたので、各社がBLに乗り出したときに橋渡しができたというのもあります。某社の某誌に至っては、創刊のための立ち上げを手伝い、編集者、作家のほとんどを紹介して、私はさよならしました。なんでさよならしたかというとそれは漫画誌だったので、立ち上げだけを手伝ったわけです。
 その後も、友人たちの紹介を好んでしました。紹介した先のことは自己責任でお願いしますと関わらなかったけど、みなさん紹介した甲斐がある仕事をなさってくれました。
 私はそんなにものを見る目があるわけではないのに、幸運にも才能のある友人たちには恵まれていました。なかなかデビューが決まらず私がきりきりしてもしょうがないけどきりきりしていた友人も、今は引く手あまたです。その友人は、今思えば別に私がなんもせんでも今のように人気作家になっていたことには間違いありません。
 今回当時のことを思い出して、何故「自分は当時実力がなかった」と思っている彼女と私に認識のずれがあるのかに気づきました。
 彼女だけでなく、何人かに対して本当に余計なお世話ですがあの頃手伝ったことは、
「もしかしたら今の出版社、今の担当さんと合わないのでは? そんなに実力があって魅力的なものを描いているのに、仕事がないのは普通におかしい。目先を変えて、違う担当さんに会ってみない?」
 というようなことをしただけです。
 具体的に言うと、大手の少年誌に投稿し続けて、担当がついたものの全くデビューさせてもらえないままかなり時間が経っている友人がいました。
 私は彼女の投稿作を読んでいたので、これが商業レベルではないのは、出版社もしくは担当さんと気が合わないんだろうなあと思って、青年誌の編集さんを紹介しました。
 その編集さんは彼女の作品を読むなり顔色を変えて、
「ここから先は私とその方でやり取りさせてください」
 と瞬く間に彼女の担当編集者となり、あっという間に大々的に彼女を最良の形でデビューさせた。
 Twitterでやり取りしていた友人も、そういうことです。
 デビュー当時なので今より未熟なところはもちろんありはしたでしょうけれど、彼女を生かせる編集さんに出会えてなかっただけなので、私がしたことはちょいと橋を渡しただけです。
 この話の何が、新人さんのお役に立つかも知れないと思ったかというとですね。
 私の友人たちには何人かいましたが、投稿や持ち込みスカウトで担当さんがついて、その担当さんの元で何年もどうにもならない状態が続く場合があります。
 それはもしかしたら、残念ながら作家本人に才能の目がない可能性ももちろん充分あります。
 でも今上げた例のように、この担当さんが私を唯一デビューさせてくれる人、生かしてくれる人だと、勘違いしてる場合もあるかもしれません。
 あなたがもしそれなりの才能があって、努力をしていていいものを描いていたとします。
 だけどあなたの担当さんが、真逆のものが好きな編集さんである場合があるという話です。
 これはその編集さんが悪いのではありません。
 好みが違う。相性が合わない。それだけです。全てのヒット作の内容に一貫性はないですよね。
 でもそこが合う合わないということは多分とても大事で、たとえばあなたが東の方角に向かってとてもいいものを創れるのに、担当さんの行きたい好きな場所は西なので、全力で西に行きましょうと東に向いているあなたを改変されていることもあるのです。
 それではせっかくの才能が生きない。
 若いうちやデビュー前に自分でこのことに気づくのは難しいですが、もし膠着状態に陥ったときは、たった一人の好みの合わない人に向かって作品を発信し続けている可能性も疑ってみてください。

 私自身にも、こういったことはありました。
 実は「毎日晴天!」は、最初はキャラ文庫から発行される予定ではありませんでした。
 某レーベルさんが、
「シリーズをやりませんか」
 と声を掛けてくださって、丁度家族ものが書きたいと思っていたので、シリーズの原型になるプロットが手元にありそれを渡しました。「毎日晴天!」の次巻は「子供は止まらない」というところまで、私のプロットでは最初から決まっていたことでした。大河と秀の話から始めて、次は勇太と真弓の話にすると内容も設定も細かく決めていました。
 ところが某レーベルさんは、どうしても1巻を「子供は止まらない」から始めたいとおっしゃいました。
 私はとにかくいつでも強情なので、テコでもこの提案に頷かず、スタートを切れずに話し合いは平行線のまま時間が過ぎました。
 私は勇太と真弓の話から始めることを受け入れられず、行く当てもないのにプロットを引き上げるところまで来ていました。
 そこに、キャラさんが現れて、私がこの話をすると、大河と秀の話から始めさせてくださるとすぐに快諾してくださいました。
 某レーベルさんには、
「1巻から書かせてくださるところがあるので、このプロットは下げさせてください。また機会があればお仕事ができたら嬉しいです」
 とお話しして、今回はご縁がなかったのですねとお互い納得して完全にプロットを下げさせてもらいました。
 その後この某レーベルさんと私は一度もお仕事をしていませんが、じゃあこのレーベルさんが能力がないのかというとそうではなく、大きなヒット作も人気シリーズもいくつも排出しています。
 私はたまたま合わなかった。本当にそれだけの話です。
 結果、私にとっては最良と思えるキャラ文庫で「毎日晴天!」をきちんと大河と秀の話からスタートできて、お休みもしたのに現在も続けさせていただいています。
 あのときのことを振り返ると、たらればになりますが、がんばって勇太と真弓の話から始めても、こんなには続かなかっただろうし、何より二宮先生という最高のパートナー(私が勝手にそう思っている)に引き合わせていただくこともなかったと思います。
 このシリーズをスタートしようとしていたときに、私がキャラの担当さんと出会えたことはただ幸運でしたが、どうしても子どもたちの話から始めたいという提案にそのときまで長く頷かなかないでいたことは、自分を褒めたい判断だったと思います。
 大きなレーベルだったし担当さんは乗り気で、「その方がきっと注目される。売れる」という気持ちで考えてくださったことであり、好意からの改変提案でした。
 頷かなかったのは、判断できたというよりはただ私が強情だったからとも言えます。

 間違った判断も、たくさんしてきました。
 一番間違っていたと思うのは、仕事があることが嬉しい、書くことが楽しい、そして体力があるという状態に任せて、インプットする時間や休む時間を作らないまま、何年もひたすらアウトプットし続けたことです。
 こういうアドレナリンが出ている自分を止めることは難しかったと思いますが、
「もう少し仕事をセーブしては」
 と助言してくれた方もたくさんいたのに、耳を貸さずに結果、長く休むことになりました。
 休んだきっかけはプライベートで心身ともに参ることがあったからですが、そこからの小説休業が何年もに及んだのは、空っぽになるまでアウトプットし続けてしまったからだろうと今は思います。
 そのときには気づけなかったし立ち止まれなかったけど、今は大きく後悔しています。
 あの、「もう二度と小説が書ける気がしない」という気持ちのまま何年も過ごすということは全く経験する必要がないと思うので、できればアウトプットが続いて自分が疲弊していると気づいたなら少し休むことは強くおすすめします。

 歳を取って、この仕事を何年もして、失敗もたくさんして、もしかしたら同じ轍を踏まないように気をつけてくらいのことは言えるのではと思い、この日記を書いてみました。
「私いいものを書いているのに認められない!」
 くらいの勢いの良い気持ちがもしあるのなら、一度本気で認めてくれる人を探してみてもいいのではということ。
 フリーで仕事をしているのなら、リスクを負うだけでなく、そういうメリットも最大限に活用してもいいかと思います。
 そして何より、波に乗っているときでも休憩とインプットは、アウトプットの一部だと気づきましょうと、そんな話でした。
 私は今はそこそこ頑張れてると思いますが、今後あのときのようにはならないように、充分気をつけていきたいです。
  1. 2016/11/16(水) 18:55:00|
  2. 日記

「一つのことに、二つの気持ち」

 最近頻繁に思い出すことがあるので、冬の初めの日記です。
 何故このことを思い出すのかはわからないです。日記にはアメリカ大統領選挙や「ミス・サイゴン」も絡みますが、この件を度々思い出すようになったのはもう少し前からです。よく思い出すので書いてしまおうと思う。
 今、「ミス・サイゴン」上演中に読み終えたいなと、「憎しみの子ども―ヴェトナム戦争後のもうひとつの悲劇」キエン・グエン著を読んでいます。まだ半分。ベトナム戦争後の、革命に倒された側である著者の子ども時代からのノンフィクションです。「ミス・サイゴン」のジョン役上原理生さんが読んで欲しいとブログに書いていらっしゃったので、読み始めました。
 最後まで読まないとわからないけど、今のところホー・チ・ミン側の共産党が悪魔のよう。それは著者が共和党側の富裕層で何もかもを革命で奪われて、手におしろいをはたいていた高慢な母親が、共産党側に立った庭師やメイドに酷い目に遭っているからなんだけど。
 でもあのアメリカがあきらめた戦争の結末だよと、共産党側の言い分も聞きたいと思うけれど私が見ているベトナム戦争ものはだいたいアメリカ発信。グエンもアメリカに渡っている。アメリカ発信のものはアメリカは間違っていると描かれていたとしても、ベトナム・コンバットはまるで人ではないかのように狂ってることが多い。そうなのかな? 違うんじゃないかな? そちらがわからちゃんと見てみたい。ベトコン側から。
 頻繁に思い出すというのは、二十代始めのころに読んだある雑誌と、本のことです。
 ある雑誌というのは今も存在するしチャンネルもあるけど手元にないので、伏せて書きます。記憶で書くから伏せるのです。記憶というものは自分の記憶も書き換えられるので信用ならぬ。
 美しい写真で世界のあらゆる国の自然、文化、内乱などを伝える雑誌です。興味が向いたときに読んでいました。その号はたまたま買った。世界的な、社会的な雑誌だと思います。アメリカ発信だけど日本版もある。
 巻頭に見開きで、痩せた下半身不随の男性を、少年が背負っているとても美しい写真が載っていました。
 記事はインドのカーストを伝えるもので、「厳しい自然の中で、障害を持って生まれて来たら生きてはいけない。だからたとえば下半身が不自由なら、何かしらの神のような存在として高いカーストになる。そしてその人を背負う役割のカーストがある。人を生かすために、カーストとは必要なものだ」というような内容だった。
 写真の荘厳さと記事の筆力から、私も若かったのでそのまま、
「なるほど気候や土地に即して必要なものなのだ」
 と思ってしまうのは簡単だったような気がします。
 けれどそのとき、「花嫁を焼かないで―インドの花嫁持参金殺人が問いかけるもの」など、インドのカーストが低い女性がカーストの高い男性に嫁ぐときに、親は不安で不安で高い持参金を持たせるけれど結局人とも思われていないので持参金だけ取られて花嫁は生きたまま焼かれてしまうというノンフィクションを読んでいました。この件には深い関心があって、他にも当時のカーストがもたらず残虐な事件を書いた本を何冊か読んだ。
 怖いことだなと思いました。
 美しい写真と素晴らしい筆致で書かれた文章だけを見ていたら私は、
「カーストは必要なものだ」
 とその言い分だけが正しいと思い込んだかもしれない。
 手元に「花嫁を焼かないで」があって良かったと思う。
 あまりにも前のことでここは記憶が曖昧なのですが、私は先にこの記事を読んで友達に話したんだと覚えています。そしたらその友達が「花嫁を焼かないで」をくれたような気がする。
 もちろん、障害のある方を背負う方は必要な土地なのかもしれません。それ自体が間違っているという話ではなく。
 二つの立場で物事が揺れるのなら、両方の事情、気持ち、大きな命のやり取りをちゃんと知りたいと思った最初のできごとでした。
 先日、アメリカ大統領選挙がありました。
 トランプを指示する人々の言い分も読んだ。
 そうすると、その白人層の貧困は何故始まったのかと私は考える。
 けれどそもそもという話を始めると、欧米やイスラム圏では、ユダがキリストをというところまで遡ってしまうこともありそれは建設的ではないと思う。
 ただ、強い言葉や虐げられた人からの言い分だけを聞いてしまうと、
「そうか」
 と納得してしまったりしやすいです。
 こういうとき何かに対して「そうか」と思ったら、反対側の気持ちを探れたらいいなと思う。
 「憎しみの子ども―ヴェトナム戦争後のもうひとつの悲劇」は最後まで読み終えてからまた感想を書きます。反対側の気持ちがわからずに終わったら、革命側から書いたものも読みたい。
 「ベトナムよちよち歩き」のためにベトナムに行ったころには、まだまだ戦争の爪痕が生々しかった。あれから二十年が経って今ベトナムが何処に向かっているのかも、できれば自分の目で確かめられたらと思います。
 友達の言い分とかもこうなんじゃないかなと思う。
 一方の言葉だけ鵜呑みにするともしかしたらいつか大きな後悔が待っているかもしれない。
 かもしれないというか、最近自分が追わなかった友人の言い分を尋ねなかったことを後悔しているので。
 そういう後悔は、とても大きいという話でした。
  1. 2016/11/15(火) 00:09:03|
  2. 日記

「夏の終わりの日記ですよ」

 釜石に行ったのが七月の末で、そのときのことをずっと書きたいと思っているのですが。なかなか、冷静な気持ちで書くのが難しい。そこに台風が来て、なんとも。現地の方にできることなど伺ってから、改めて書きたいと思います。静かな気持ちで書かないと聞いてもらえないこともあるよねと思う。聞いて欲しいことがたくさんあった。

 そして一つ前の「音源を探しています」をそろそろ削除しようかと思っています。申し訳ありません。見つかる気配は今のところないです。

 この音源問題と、無断上演問題が重なってさすがに気持ちが参っていた時期がありました。
 無断上演についてはここで改めて申し上げますが、私の個人的な感情です。言ったら契約とは無関係です。
 たとえば他の作品の同人誌が送られてきても、私は楽しく読んでいます。それは他の作品を軽んじているのではないのです。
 この戯曲だけは駄目なんです。私は本当にいやなの。いやだって言ったはずなのにどうして、と。
 そういう、契約とか権利とかではない感情のことなので却って参りました。

 そんな感じで低空飛行で、夏場都内の百貨店に入りました。
 広い食品売り場の日本酒コーナーで四合瓶を一本買って、煎餅屋に移動しました。
 この話、お金のある人の話だと受け取らないで欲しいのですが。できればまっすぐ、人ってという話として届くことを願います。
 煎餅屋までは日本酒コーナーから遠く、そこで贈答用お煎餅の熨斗の宛名書きを書こうとして、床に日本酒の入った袋を置きました。
 角度が悪かったのか、見事に二つに割れてしまった。
 こういう気持ちが落ちてるときに物が壊れたりすると、十倍くらい参る。
 百貨店の中で買って百貨店の中で割ったので、もしかしたら日本酒コーナーにこのまま戻れば新品と変えてくれるかもしれないとは思いました。
 百貨店って、いい意味でそういうものだと私は思っています。値段が張る理由は、信頼とアフターケアで、時にはやさしさ。やさしさをお金で買うのかって話になるかもしれませんが、長くつきあえば信頼関係ができて、しない無理をしてくれたりすることもあるのが百貨店なんじゃないかと私は思います。気持ちがあるかないかを信じるのは、受け手次第。
 この百貨店の話と、私が接客していただいた女性のことは関係ないともあるとも言える話です。
 前二つの件ですっかり疲弊していたので、私はもういいという気持ちになりました。変えてくれるかもしれないけど、割れたのではなく、自分で割ったのは確かだし変えてもらうのもと思って、
「大変申し訳ないんですが、このまま処分だけお願いしてもいいですか?」
 煎餅屋の店員さんにお願いしました。
 二十歳くらいに見えました。とても若い女性でした。
 随分長いこと、彼女は考え込んでいました。
「これ、お預かりしてもいいですか?」
 私が割った日本酒を持って走って行きました。
 長い時間が経って、彼女は厳重に包まれた同じお酒を持って戻って来ました。
「お気を付けてお持ちください」
「でも私、自分で割ったのに」
「宛名書きしていただくときに、お預かりしなくて申し訳ありませんでした」
 その上頭を下げてくれました。
「ありがとうございます」
 お礼を言って、お酒をいただきました。
 これは私の想像ですが。
 彼女はとても若かったし、私が「処分してください」とお願いしたときにかなり長く考え込んでいました。
 新品と変えてもらえるかどうかはわからなかったけれど、彼女の考えで遠い日本酒売り場まで走ってくれたのではないでしょうか。
 自分で一生懸命考えて、答えがわからないかもしれないのに走ってくれて、息を切らして戻ってくれた彼女の勤めているこの店舗、この百貨店でまた買い物をしようと思いました。
 これは何処ででも言えることです。何処ででも、またお願いしたいという人に出会えたら仕事をお願いしたいです。
 疲労や落ち込んでいた気持ちも少し晴れて、後日百貨店宛てにお礼のメールを書きました。
 人材ってこういうことなのかなと思ったりしました。
 ふとやさしくされるとただ嬉しい。ただありがたい。
 書いておきたかったので、夏が完全に終わる前の日記でした。
  1. 2016/09/04(日) 20:42:12|
  2. 日記

「できれば笑って読んでくれたら嬉しいです」

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 これは私個人の素人考えですが、猫の巨大化は個体差の問題だと思います。
 何故私がそう思うのかというと、実家のお兄ちゃん猫ミイは、一時期10キロを超えていました。
 先代猫ニャン太と、ミイの妹分である蛍と雪は3キロくらい。
 しかしミイは8年前に、
「このままだとこの子死にます」
 と獣医さんに言われて、そこから病院で売っているお高い療法食を与え続けました。
 本当はその症状に該当しない猫にも同じ療法食を与えるのは良くないそうなのですが、
「ミイはこのおいしくない療法食を、蛍と雪はこの安くて美味しい普通のカリカリ食べてね」
 などと言っても猫は聞いてくれないので、ミイの命優先と言うことで、蛍と雪は巻き添えで高くて恐らく美味しくないのだろう療法食を食べてました。
 たまに切らしてしまったときに市販のカリカリを上げると三匹とも、
「やべーちょーうめーまじうめー!」
 みたいにガツガツ食べていたので、体に良い物はまずいのが世の常なんだなと思いました。
 その上ミイは、そんなに食い意地が張っているわけではありません。むしろ一番痩せている雪の方がすごい食いしん坊。お兄ちゃんも分もぶんどります。
 缶詰も駄目だと獣医さんに言われたので、缶詰は蛍と雪で半分こしてミイはいつも匂いだけ嗅ぐというかわいそうな中でも、ミイは10キロ超えたので私は猫の巨大化は単なる個体差なんだと思っています。
 でも個体差でも肥満はどんな動物でも健康には良くないので、寝ている時間が長くなっていくミイを見ていて、私はこの子はそんなには長生きしてくれないだろうとは思っていました。
 三月の末に私が都内にいたら、
「お姉ちゃんどうしよう。ミイの呼吸が荒い」
 そう弟からメールが入りました。
 ミイは十二歳です。そのときが来てしまったかと思いましたが、もしかしたらおしっこが詰まっているだけという可能性もあると考えました。
 猫は臓器が小さいので、尿が詰まっただけであっという間に死んでしまうことがあります。でも逆に、尿が詰まっているのなら獣医さんで処置してもらえばそこから長らえることも充分できる。
「すぐ病院に連れて行きなさい。お会計私が後でするって先生に言いなさい」
 弟は甲斐性なしなので、四万五万とかかることも考えられるから、無理だろうと思いメールを返しました。
 翌日夜帰宅すると、ミイのそばに母がいました。
「病院に連れて行った?」
 尋ねると母は、
「K病院がミイを連れてこないでくれと言うから、連れて行っていない」
 と言いました。
 K病院は、雪が便秘で長く掛かっている病院です。
 8年前にこのままだとミイは死ぬと言われたのもその病院だし、ミイはそのあとも一度そこで診てもらっています。
「そんなことあるの? 明日私電話してみる」
 確かにミイは呼吸が荒くぐったりしていて、でも尿が詰まっているなら少しでも早く処置してもらわないといけないのにと、弟にも獣医にも腹を立てながら私は寝ました。
 ミイは家では、私に押しつけられた双子の妹に酷い目に遭わされても怒らない、おっとりした大人しい猫です。日だまりの気持ちのいい一番のスポットがあってそこでまったりしていると、雪がテテテとやってきて、
「お兄ちゃんどいて」
 と体を押しつけられたら、すぐあきらめてのそのそどきます。
 蛍がやって来て、
「どいてよお兄ちゃん」
 とかなりの力でミイの横っ面を殴っても、怒らずにどいてしまうような猫です。
 母はその光景を見ては、蛍や雪からミイの居場所を取り返そうとしていました。
 ですが外に対しては、全く違いました。窓辺に来るよその猫にたいして威嚇するミイの声は私も腰を抜かすほどだったし、10キロあるミイが動物病院で暴れるさまは、家でのおっとりからは想像もつかない暴れっぷりです。
 それで「もう連れて来ないでくれ」だということは私も理解しましたが、そんな猫一匹抑えられない獣医がいるかと思い翌朝早くに起きて病院が開く前にK動物病院に電話をしました。
「連れて来るなら、診る前にまず全身麻酔を掛けます」
 そう言われて、連れて来て欲しくない理由をくどく言われたので「もう結構です」と電話を切りました。
 もう一つのT病院に電話を掛けると、すぐ連れて来てくださいと言われました。そこはミイを拾ったときに、虫の駆除や予防注射、去勢手術をしていただいた病院でした。
 弟は本当にいくじがなくて呆れたのですが逃げたので、私と母で連れて行きました。
 電話をしたときに、今までK病院で診てもらっていた事情を説明する中で、
「妹猫が便秘でそちらに掛かっていましてそれでミイも……あ、妹でもなんでもないんですが」
 言ってから雪とミイは血なんか一滴も繋がっていなかったわと思い、そうして病院に行きました。
 受け付けで、
「飼い主さんの名前が、前と違いますが」
 と、問診票の飼い主が弟の名前から私の名前に変わっている理由を聞かれました。
「弟は甲斐性がないので、もう今日から私の猫にします。書き換えてください」
 そうお願いしましたが、実は、私とミイは仲良しではありませんでした。
 ミイには一方的に嫌われていました。
 動物にこんなに嫌われることがあるんだと私は日々驚いていましたが、ミイは私に懐かず、私が撫でると唸ったりしました。
 ミイには多分、一人っ子でぬくぬくと母の愛を受けていたのに、
「ラノベでもないのに突然頼みもしないおてんば極まりないとんでもない双子の妹を僕に押しつけたのはこの人!」
 という認識がちゃんとあるのだなと、私は嫌われる度に思っていました。
 でも私はミイが好きでした。
 ニャン太にも、蛍にも雪にも一度も思わなかった、
「いいな。私はミイみたいな猫になりたいな」
 そんなやさしい空気感が、ミイにはありました。私には冷たかったけどね。
 T病院の先生は、その日はおじいちゃん先生でした。
 看護師さんと三人でミイを抑えてくれたのですが、聞きしに勝るミイの暴れっぷりには本当にびっくりしました。
 そらK病院でも連れて来るなと言うわなと最初は思いましたが、T病院の看護師さんたちはきっちり二人でとんでもなく暴れるミイを抑えて微動だにしません。思えばK病院では3キロないような雪でさえ抑えられずに、私は雪を連れて行くときには手袋を持って自分で雪の前足を固定することが普通になっていました。
 心電図を取り、レントゲンを撮ることになりました。
 待合室で、
「治る何かだといいんだけど」
 と母と話していたら、すごい勢いで診察室に呼ばれました。
 先生が慌てて注射器に何か薬剤を入れようとしていました。
 ミイは呼吸しているようにもしていないようにも見えて、瞳孔は開いて見えました。
 まさか今すぐとは思わなかったので私は激しく動揺して、何度も大きな声で名前を呼んでミイを呼び戻そうとしました。
 先生はカンフル剤をミイに打とうとして、薬剤を取り落としました。二度取り替えました。それだけ動転していたのだと思います。
「ミイ!」
 何度目か叫んだときに、母に、私が名前を呼ばれて背を摩られました。意味を悟って、ミイを呼ぶのをやめました。
「すみません」
 先生にミイの臨終を告げられて、私はその場で泣き崩れてしまいました。
 あまりに泣くので看護師さんに慰められて、
「この子私のこと大嫌いなんです! 私に全然懐かないんです!」
 そう口走ったのは、だからそんなに同情しないで下さいという意味だったのですが、看護師さんはわけがわからなかったと思います。
 ひとしきり母と泣いて、先生から説明がありました。
 健康な猫の胸部写真と、ミイの胸部写真を並べて見せられました。
 ミイは心臓も肺も、よく今まで生きてたねと驚くほど真っ白でした。こんな状態なら問答無用で全身麻酔を掛けられた瞬間に死んでしまっただろうと、こちらに来て本当に良かったと思いました。
「レントゲンを撮らずに帰してあげていればせめて家で逝けたのに……すみませんでした」
 先生は、私と母に謝ってくれました。
 いや、ここまでこの限界のミイを病院に連れて来なかったのはこちらだし、そんな猫が死んだ場で飼い主にすぐ謝るだなんてあなた、人によってはどんな目に遭わされるかわからないよ先生気を付けて! と思いながら頭を下げました。
「写真を見たら、納得しました。こちらの勝手ですが、家で逝ったら何かしてやれたのではないかと後悔したと思います。ありがとうございました」
 先生はミイをきれいにしてくれて白い布で包んで、花を添えて車まで運んでくれました。
 このとき私はニャン太を送ったときの記憶があってので、
「火葬はしなくていいのですか?」
 と尋ねると、
「お庭があるなら、焼かないで埋めてあげていいんですよ」
 そう教えられて、そうか田舎のいいところだなと思いました。
「お会計は」
 かなりかかったはずだと思い尋ねましたが、私はこのとき目も当てられないくらい泣いていたので先生は、
「いつでもいいですよ。何もお力になれませんでしたし」
 そうおっしゃいました。
 この日は土曜日だったので、月曜日にお支払いに行って、今後は雪もこちらでお世話になりたいとお願いしました。
 二個駄目にしたはずのカンフル剤が、明細に入っていませんでした。この方はきっと長く獣医をやられているのに、それでも目の前で動物が逝くことに激しく動揺して嘆く心を失っていないのだなと、私は先生がカンフル剤を落としたことを後からありがたく思ったのですが、お会計には一切入っていませんでした。お気持ちがありがたくて、唇を噛み締めました。
 土曜日に説明しきれなかったので今更ですがと、ミイのカルテを見せられたら「5キロ」と書いてあったので、
「随分小さくなって……」
 と私が涙ぐんだら先生は、
「あの……全然小さくないです」
 とそれだけははっきりおっしゃいました。
 土曜日は、花をたくさん買ってカゴを買って、実家に帰りました。
 カゴにミイを寝かせて花を飾って、いつも妹たちに取られていた一番好きな窓辺からミイに庭が見えるようにしました。
 蛍はすぐにお兄ちゃんが逝ってしまったことがわかったようで、二度ミイのそばに来て鼻先を押しつけていました。
 雪が「お兄ちゃん動かない。なんで?」と気づいたのは深夜の午前二時で、私がミイを眺めていたら膝に乗ってミイのカゴを覗き込んで、「なんで?」と私を見てはミイの周りをうろうろして、やがてミイのそばで眠りました。
 いくじのない弟は、ミイを連れて帰ってしばらくしてから帰宅しました。
 私はもう弟に会わずに仕事場に行きたかったのですが、母からの、
「お姉ちゃんから説明して」
 という圧に、仕方なく弟を待ちました。
 一目見てミイが逝ってしまったとわかって、弟は声を上げて泣きました。
「レントゲンを見たら、生きてるのが不思議なくらい肺と心臓が真っ白だった。もしかしたら、二年、三年前に気づいて病院に連れて行っていたらとも考えた。でも、あんなに暴れるほど病院が大嫌いだったなら、何年も病院通いすることはミイにはとんでもないストレスだったと思う。ゆっくりゆっくり動いて何年かを疲れながらものほほんと過ごして、最後の三日苦しくなって。病院に連れて行ったとたんに、病院に連れて来られるくらいならここで死んでやる! と死んでしまったミイは、私は幸せだったと思う」
 泣き止まない弟に、私が思ったままを伝えました。
 十二年前弟は体調を崩して、仕事ができない時期がありました。友人はいたけれど弟は携帯を持つのを嫌って長く持たずに過ごしていたので、その時期社会と隔絶されていたと思います。
 そのときに、土手に落ちていてくれたのがミイでした。
 弟が拾って来ました。
 弟の人生で一番辛かったかもしれない時期に、そばにいて慰めてくれたのがミイでした。カルテの名義を書き換えたことを、私は後悔しました。
「一晩お通夜をして、明日庭に埋めよう」
 弟を一人にしようと思い、私は仕事場に行きました。
 翌日、ミイが好きだった居間からまっすぐ見えるところに埋めようと、弟が穴を掘り始めました。
 ミイを連れて私と母で庭に出て、弟が穴を掘るのを見ていました。
 私も思っていたことを、母が言いました。
「何処から見てのまっすぐなのかしらね」
 弟のまっすぐが謎でしたが、かなり深く掘っていたのでもういいと、母娘で待ちました。
「もういいと思う」
 弟が言うので、ミイを土の上に置きました。
 ゆっくりゆっくり、弟が土をかけていきました。
 最後に顔だけ、残りました。
「顔、かけるよ」
 弟が言うので母とミイの顔を眺めて、弟は土でミイの顔を完全に隠すと蹲って泣きました。
 私も泣きましたが、母が私の隣でふと、
「あきらめた」
 と言いました。
「あきらめてなかったの?」
 驚いて尋ねると、
「今にも動き出しそうに見えたから、生きてるんじゃないかってちょっと思ってた。だって、パパより長く一緒にいたのよ」
 亡父と母の結婚生活は、十年です。
 ミイは十二歳。
 言われて見ればそうだなと、手をあわせて台所に戻りました。
 私はお茶を飲んで、母は何か台所仕事をしていました。
「来ないわね」
 ぽつりと母が言いました。
「何が?」
「台所に立つと、必ずミイが来て足に頭をすりつけられて。やめてよおじいちゃんって、いつもおじいちゃんおばあちゃんごっこしてたのよ」
 母はいつまでも、ぼんやりしていました。
 私は驚きました。
 母は実は、動物愛ゼロと言ってもいい人です。子どもの頃うちにいた犬のチロへの冷淡さは忘れられないし、ニャン太をうちで飼いたいと説得するのも本当に大変でした。家が荒れるから猫は嫌だし動物は嫌いだと、今でもずっと文句を言います。
 そんな母が、ミイをとても愛している。ミイを惜しんで、ミイとの別れに悲しみに暮れている。
 母の喪失感が心配で、私は母を旅行に誘いました。
「温泉に行かない?」
「あんたと旅行なんか真っ平ご免よ! そんな体力残ってないわよ!」
 即答で断られました。過去の積み重ねですよ。
 それを友人に愚痴ると、福島県花見山が今盛りだから花見山に連れて行ってさしあげてはと提案してくれました。
「花見山に行かない?」
 母を誘うと、
「……花見山なら、テレビで毎日開花状況を見てるわ。花見山なら秘湯じゃないわね」
 いつも秘湯に連れて行く娘への疑心暗鬼をなんとか解いた母を、花見山に連れて行きました。
 花見山はまるで、桃源郷でした。
 丁度花盛りで、天気も良く、現実とは思えない美しい風景に母の寂しさも少しは癒えたようでした。
 かわいいピンク色の木瓜の花を眺めて、
「なんだかおっとりしてミイみたいだね。ミイのお墓には、この花を植えようか」
 そんな話をして、帰りました。
 弟にも花の写真を見せるとそれがいいというので、造園業者さんに苗を探していただいて、昨日、ミイのお墓に植えました。
「大きくなるけど大丈夫ですか?」
 造園業者さんに言われました。
 少し離れたところに植えたニャン太の赤い百日紅が、もう二メートル超えたくらい。
 そんな日が来たらこの寂しさも、また変わっているのだろうなと想像します。
 私はミイは、幸せな猫だったと思っています。
 動物を愛さない母の愛を一身に受けて、母に甘えて、いらない妹を私に押しつけられたけど時々はやんちゃな妹たちもかわいかったでしょ?
 無防備に腹を出して寝ているミイを思い出すと、ミイは幸福な猫でいてくれてありがとうと私は思う。
 悲しいし寂しいけど、おまえが幸せそうに見えたおかげで、そんなに悪くない一生だったよねとたくさんは悔やまずに済む。
 自分の人生を幸せに思い切り生きるって、多くの悲しみをいつまでも誰かに遺さないやさしさなんじゃないかなって、ミイを見てたら思った。
 誰かを亡くしていつまでも立ち直れないときには、亡くなったそのときではなく、いなくなってしまった人の生きていた時間を一度思ってみるのは大切かもしれません。
「ミイを見習って、あの人やりたい放題やって生きたよねって言われるような人生送るわ!」
 友人に言ったら、
「ミイちゃん菅野さんほどやりたい放題生きてないと思う」
 と言われたので、そこそこに私も幸せらしいとミイが教えてくれたよ。
 深夜、仕事場から実家に帰ると、雪がぽつんと眠っています。
 今まではミイとお尻をくっつけて寝ていた。
 その雪の姿を見るときにはまだ、寂しくて涙が出て、雪を撫でくり回します。
「寂しいね、雪」
 そう言うと雪はとても迷惑そうです。
 でも忘れっぽいのに時々雪は、寝場所が上手く見つからずにうろうろします。
 ミイを探しているのかなと思うと、やんちゃな妹もおまえが大好きだったみたいだよミイと、寂しいけど羨ましいような気持ちになる。
 木瓜が大きくなって花が咲く度、私は嬉しく寂しいんだろうなと思います。 

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私の一番好きな写真なのですが、人に見せると怖いと言われることが多い。

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なので普通の写真も上げておきます。

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去年の大晦日、大間のマグロの血合いを削って、分厚い骨をさすがに食べられないだろうけれど大晦日だから舐めてはと、三等分して猫皿に置きました。母と談笑してふと見ると、床まで舐めたように何もなくなっていて、蛍と雪が、「ちょう美味しかった! ちょう美味しかった!」とはすはすしていた。そのとき一口も食べられなかったのであろうミイ。

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かわいそうだと母が、マグロの赤身をあげて、ミイは満足そうでした。母の膝の上でまったり。

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ミイと雪はなんだか仲良しでした。仲良しというか。なんかこんな感じ。

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今はまだ小さな、木瓜の木です。

またいつかね。ミイ。





  1. 2016/05/19(木) 15:08:00|
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