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菅野彰

菅野彰の日記です

「八年目の気持ち」

 東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りし、被災された皆様にお見舞いを申し上げます。

 七年目、六年目の日記を今自分で読み返してみて、一年ごとに気持ちが大きく変化していることを改めて知ります。
 それはわたしだけではないだろうし、前に進めず苦しんでいる人もたくさんいる。
 一人一人この日の思いは違うと、八年目のわたしはそのことを去年よりも考えています。

 ここ、福島県にいて。1年に一度か二度、津波の被害に遭った海辺を歩いて。
 風化という言葉があるけれど、八年目がやってきて変化はたくさん感じてる。
 多くの人が前を向いている。わたしは向いている。
 でも留まっている人を忘れずにいたい。置いていかないよ。忘れないよ。

 そういう中、
「もう風評被害と向き合うことに時間を割くことを減らす。消費者となってくれる人に、どうやって安全でおいしいものを届けるかということに向き合う」
 という具体的な動きに、七年目からはわたしも切り替えました。
 買わない人は買うことはないのだろうし、風評被害を続ける人は続ける。
 そのことは動かないようなので、前向きに消費者と向き合いたい。
 数値の改ざんがあったならそれは福島県に住んでいるわたしにとって大きな問題なので、数値も見て行く。それを追って伝えるのは、一番にはここに住んでいる人々、身近に顔が見える子どもたちのためです。
 風評被害と向き合う時間は減っても、それが差別に向かったときはわたしはまだ向き合う。いつまでも、差別とは向き合う。
 そのことについて堅い話を最後にするので、読めたら読んでね。

 その前に少し堅くない話。
 七年目の気持ちに、「祈りを取り戻した」と書きました。
 1年の間に様々思うところあり、その祈りは「ぺっ!」ってお返ししました。
 誰に返したのかもわかんない。重い気持ちではなく、「ぺっ!」て返した。
 その「ぺっ!」て返した気持ちは、震災の一週間後に「わたしはもう祈らない」と決めたときの凄惨な気持ちとはかけ離れた、軽い気持ちです。「いらないこの祈り」くらいの軽さ。
 突然のようですが日本語って、ちょっと難しくない? 曖昧な部分が多い。わたしはそれって、良くも悪くも日本人の気質にあった曖昧さなんだと思う。ふわっとゆるく「まあいいか許しちゃおう。まあいいかなあなあで」という気持ちに即した言語なんじゃないかなって、思ってる。説明できない気持ちみたいな言葉、日本語にはたくさんある。英訳できない言葉。グレーゾーン対応がSNS以前は曖昧にできていた部分も大きかったと思うので、いいところでもある。白黒つけなきゃいけないことをつけないという意味では、悪いこともある。善し悪しかな。
 日本語はそういうものだとわたしは思っているので、時々、英語の方がわかりやすいなっても思います(はっきりさせておかなければならないけれどしゃべれないよ!)。
「私は祈る」
「I pray」
「私は祈らない」
「I do not pray」
感覚かな。わたしにはこういうときは、英語の方がわかりやすい。
「『I』はわたし以外の何者でもない」
そうはっきりわかる。
祈るのもわたし。
祈らないのもわたし。
それはわたしの話で、わたしのことはわたしのことでしかない。
人と生きていて、たくさんの人に力を借りて、交わって、別れて、話をして、そういう中でわたしの何かを決める。
人と生きているけれど、決めるのは「わたし」。
決めた結果もわたしのこと。
なので「ぺ!」って返したけど、それはわたしのことなのであった。
わたしのことはわたしのことだとと思えているのは、わたしにはよいことです。
ほら日本語って難しい。
わたしは祈らないけど、それはわたしのことなのはわたしにはとてもいいことです。
伝わるかな。

 では、堅い話をさせてください。
 わたしもしかしたら来年はここに住んでいないかもしれないので、ここを離れて気持ちが離れてしまうことを少し不安に思っているから。福島県の人である今のうちに、堅い話です。
 もしよかったら、今日じゃなくてもいいからおつきあいください。
 福島県に住んでいるわたしには、原発と風評被害には強い当事者感情があります。
 その当事者感情によって、認知が歪んでいたと気づいたのは去年のことです。
 福島県の数値について大きな声を上げる方は、脱原発派、リベラル、左派、反現政権、野党派の方々であることが多い。
 わたしは強いリベラルです。リベラルには様々な解釈があるかもしれないけれど、わたしが唯一絶対に許容しないのは「差別」です。
 そして人はわたしを左派だと思っているかもしれません。そうした言葉でSNSなどで非難されることはままあります。
 わたしは今、左派でも右派でもない。与党でも野党でもない。逃げではなく本心です。
 わたしは、差別を許容しないリベラルです。
 福島県への風評被害と、脱原発は一枚岩になっていることが多い。
 現政権と与党批判のために脱原発が語られるとき、福島県への風評被害が巻き込まれていることがとても多い。
 けれど「脱原発」と「風評被害」は、「痴漢えん罪」と「痴漢被害」のように、よく似て見えるけれど全く真逆のことです。
 わたし自身は今、この災害大国の島国である日本には脱原発は必要だと考えています。震災で福島第一原発に起こったことは終わりが見えず、その犠牲になっている方々をまっすぐ見たら、代替エネルギーについて真剣に考えなくてはならないと思う。
 それでも、脱原発のために誰一人として犠牲になってはならない。
 脱原発の声を上げて与党批判をしているときに、それが福島県民への差別に繋がっていることに、せめてリベラルならば気づいて欲しい。
 沖縄の米軍基地問題を追っていると、
「何故、日本に米軍基地を置くという日本の問題なのに、沖縄県民が分断されこうして疲弊した挙げ句、批判も受けるのか」
 その問題のずれに、ジレンマを感じます。
 脱原発も同じ。
 原発によるエネルギーは、福島県にだけ供給されているわけじゃないよ。脱原発も原発維持も、この国全ての人に関わる問題。
 FUKUSHIMAのことじゃない。
 脱原発と原発推進に声を上げている両方の人々に気づいて欲しいと、堅い話をしました。
 どの政党支持者も「福島県と脱原発と風評被害」を、政党支持や政権批判のために引用するなら、その先に「生きている人間」が存在していることをいちいち思い出して。
 お願いだから一人一人の顔を見てみて。
 原発推進派なら、現在福島第一原発の被害によって少なくとも4万人(正確な数字は推移しているので調べてみて)を超えている人々が避難生活を送っているからその一人一人の現状を思い浮かべて。廃炉作業をしている人の顔を思い浮かべてほしい。
 脱原発の声を上げるのなら、「福島県の放射能被害が」と裏打ちされていない衝撃の大きい数値や状況を言葉にする前に、ここに住む子どもたちが将来結婚や出産のことを不安に思っていることを知って。その言葉を聞いてください。
 そういうお願いです。
 じゃあどうしたらいいのかといえば、わたしは代替エネルギーで可能なのか検証して脱原発を目指すことだけがゴールだと思う。
 ゴールのために犠牲者は必要ないです。
 とても堅い話でした。
 堅い話でごめんなさいとは言わない。
 これが福島県に住んで日々子どもたちの顔を見て暮らしているわたしの、八年目の当事者感情です。
 感情を込めた、目指したい現実的なゴールです。


 堅い話をしたけれど、いつものサンドイッチをおいしく食べたよ。
「いつものサンドイッチがいつもじゃなかった日々を忘れないよ/3月11日」
 おいしい、大切なサンドイッチ。
 わたしはこのサンドイッチが大好き。

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 引っ越すことには個人的な事情。まだ決定はしていないけど、引っ越さないといけないかなという感じです。
 時々ツイートしてる写真見てくれてますか?
 きれいなところでしょう。空気もきれい。水もおいしい。食べ物もおいしい。
 朝焼けや夕暮れも、毎日とても美しい。
 わたしはここがとても好きです。本当は離れたくない。
 わたしはここがとても好きです。

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 だってとてもきれい。

 そしてきれいな夜もくれば、

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 ちゃんと、きれいな朝も訪れます。

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 その朝を生きるのはわたしです。
 八年目も、わたしはよく生きるね。
 できればみなさんも、よく生きて。
  1. 2019/03/11(月) 13:12:26|
  2. 日記

「自分や身近な人の、耳の聞こえ方に悩む方へ」(2019/1/29追記)

 聴覚の真面目な話です。
 同じようなことで悩んでいる方、特に、
「もしかしてうちの子どもはそのことに悩んでいるのかもしれない」
 という方に届くといいなと思いながら書きます。
 全て自分のこと、自分の経験を通しての話になりますが、
「あ、自分もそうかも。身近な人もそうかも」
 となったときに、調べる具体的な方法、調整できるかもしれない療法が存在するので、そうしたいと思ったらご紹介した方や、同じような療法士の方にお問い合わせしてみてください。
 これを書く上で強く思うのは、自分の感覚だけを気にかけて欲しいということ。
 たとえば他者に聴覚の悩みを話して、
「気のせいでは。精神的なものでは。別に特別なことではないのでは」
 と言われても、それは一切気にしないで欲しい。耳や目のことは本当に1人1人違うので、専門家ではない他者の言葉にほとんど意味はないというのが現在のわたしの考えです。
 あなたがどんな風に音が聞こえているのかは、言葉では他者には伝わらない。けれど数値化することができます。
 読みながら「私もだ」と自分で思う部分があれば、その数字を調べてみるのもいいと思います。
 なるべく整理して書きたいけれど、何処に共感点があるのかわからないので、自分のことを一つ一つ書いていきます。
 長くなりますが、拾いながら読んでください。

 結論から言うとわたしの聴覚は、一般的な聴覚よりかなり聞こえ過ぎているという数値になりました。
 40過ぎているので聴力は普通衰えるし、実際衰えるている自覚もあるので、子どもの頃の聞こえ方は酷いものだったと思います。
 35歳くらいまでは、時折、
「音に殺される」
 という苦痛とともにいました。

 具体的なことを幼児期から順に書いていきます。
 最初に、
「自分は音に対する感覚がおかしいのだろうか」
 と思ったのは6歳でピアノを習い始めた時です。
 大きく響く高い音に、尋常ではない恐怖を覚えました。きっかけは譜面台のビスがピアノの音で振動するのを見た瞬間だったのもあって、自分でも精神的なものだと思い込みました。
「強く打鍵して」
 と言われても恐ろしくてできない。
 ピアノ教室でも家でも叱られるし、
「大きな高い音が死ぬほど怖い」
 と言っても理解はされません。
 ピアノだけでなく、音楽、テレビ、大きな音という音が恐ろしく、聞こえると過剰に心拍数が上がり、
「音を小さくして、音を消して」
 と半狂乱になることもある。
 周囲からしたら神経質で頭のおかしな子どもです。
 自分でも、自分はおかしいと思っていました。
 ピアノは続けられず、中学生になって吹奏楽部の男の子がわたしの聴覚の過敏に気づきました。
 トロンボーンを持って近づいてきて、わたしの近くで大きな高音を鳴らす。
 その恐怖で極度に怯えるわたしを、彼は多分ただからかっているだけだっただろうし、周囲もじゃれていると思っていたと思います。
 その時、彼がわたしに近づいてくる恐怖は、心拍数は極端に上がり貧血になるほどで、けれどそのことも誰にも理解はされませんでした。
 わたしも言えなかった。
 どう言ったらいいのかわからないし、ふざけているだけなのもわかっていたのです。
 彼もこんな思いをさせようとしているわけではなく、させていることもわかっていないのだろうとは思いました。なので彼のことは今も悪くは思っていません。
 このこと以外もそうですが、トロンボーンがそんなに恐ろしいと言ったら、自分の頭がおかしいと思われるだろうとも思い言えませんでした。
 その後も、音楽やテレビが無作為に掛かっている状況が苦痛で、言える相手なら消してもらい、無理ならイヤホンや耳栓をして遮断して、それは現在も変わらずです。
 音楽ならばまだいいけれと、もちろん騒音は死ぬほど辛い。
 30歳過ぎて転居した場所が騒音が辛く、
「ここに暮らしていたら死んでしまう」
 と、そこから転居を2度しました。
 無音の世界に暮らしたいと、この頃が一番音に苦しんだ時期でした。これは最初の騒音の中で数ヶ月を暮らしたことが引き金になったと、今は思います。

 最近、その音に対する神経質さが、過剰ではなくなったと気づきました。
 年齢のせいかなとも思ったけど、ここ2年ほど好きな音楽がはっきりしたので、可能な限りその音楽を聴き続けていて、ずっとかたわらにあったストレスが劇的に軽減したんだと思います。好きな音だけ聴き続けている。
 ただこれも今回聴覚を調べて色々お話しして、
「ずっと耳を疲労させてるからいいことではないです」
 と言われました。
 わたしは日常的に自宅の仕事部屋でもカナル式のイヤホンで音楽を聴いていて、耳栓も持ち歩いています。聴けない音を遮断できない状況だとうろたえるので、イヤホンが見当たらないと落ち着きをなくします。普通の狼狽ではないです。

 それらのことがメンタルのせいではなく、聴覚のせいなのではないかと初めて思ったのは、今年になってからでした。
 大分音に対する感覚がマシになったと思ったのは2年ほどなのですが、今年の頭にある男性の歌を聴いていて高音域が辛く感じました。
 元々高音域が得意な声量のある方で、スキルアップしてすごい声量で高音を出すように最近なられた。
「高音大き過ぎない? しんどくない?」
 同じ歌を聴いている方に尋ねても、しんどいのはどうやらわたしだけ。
 次に彼のコンサートに行ったとき高音を張られるところで無意識に両手が耳にいって両耳を塞いでしまいそうになりました。
 とても失礼な行為だと慌てて手を下ろして、でもそれほどこの高音が自分には辛いと自覚しました。
 その後、恐らくは絶対音感があり聴力もとても高い方とお話しする機会があって、その方が発信する音楽の話をさせていただきました。
 普段音楽を聴いて誰かに、
「こうだったよね?」
 と話しても、
「そうかな?」
 と言われることがその方だと、
「そうそう、そうなんですよ」
 と返って、やはりその音は存在すると知り、けれど多分多くの人には聞こえないのが当たり前なのだとも気づきました。
 そこでやっと、
「わたしの可聴音域は生まれつき広すぎるのでは? もしくは聞こえ方が何か違う」
 という考えに至りました。
 たとえば色盲の方は、自分の見え方が色盲ではない方と違うということに成人しても気づかないということがあります。
 誰しも自分の見え方聞こえ方が、みんなと同じ世界の色世界の音だと思っているもので、わたしもそう思っていたけど違うのかもしれない。
 けれど耳鼻咽喉科の聴力検査では測れないだろうと思っていた所に友人が、
「友達が、多分そういったことを調べて、日常に障りがあるなら調整もするという療法士をしている」
 と、その方を紹介してくれました。
 わたしが紹介していただいたのは、二村典子先生です。吉祥寺と麻布で療法士をしてらっしゃいます。
 療法はトマティスというもので、信号の出る機材を使って5つの検査をします。
 結果としては、やはりかなり聞こえ過ぎていました。
「現在の年齢でこれだけ聞こえていたら、子どもの頃は辛かったでしょうね」
 そう言われて、わたしは子どもの頃からの経験を二村先生に話しました。
 今まで仕事の取材で、カウンセリング的なもので自分のことを話す、言い当てられるというような経験はたくさんあったのですが、子どもの頃からの自分の経験や思いをあんな風に滝のようにお話ししたのは初めてでした。
 そういう自分に驚き戸惑ったけれど今思うと、
「自分にはこんなにも苦痛で恐怖である音が、誰にも理解されない。他者には聞こえていない。幻聴かもしれない。自分は心が病んでいるのではないか」
 そう思わない日が、その日までただの1日もなかったのだと気づきました。
 それは長い苦痛で、病んでいるわけではないと初めて思えたことはとても大きく、今後生きていく中でわたしには大切な安堵でした。
 惜しむらくは子どもの頃にこのことを知れたならと、心から思います。
 トマティスは本来、たとえば「さ行」が発語できないお子さんに、
「もしかしてさ行が聞こえていないのでは?」
 と調べてあげて、可能なら聞こえるように、発語できるように調整する。
 というようなことが目的の多くかと思います。
 またわたしのような聞こえ過ぎで音に過剰な恐怖を感じる子どもがいれば、その恐怖を軽減することを試みる、何より理解するということ。
 時代は常に進化して、医療や技術に対して、
「あの頃これがあれば」
 と思うことはいくつもあるし、けれどそれはもう考えてもしかたがないので普段ならわたしは考えないです。
 でもこの聴覚のことだけは、子どもの自分に与えたかった。
 一番辛かったのは、時には殺されるというほどの恐怖が、
「神経質な子どもだ」
 と理解されないことと、何より自分自身でも、
「こんなに音が恐ろしいわたしは頭がおかしい」
 と思っていたことです。
 もし身近に、
「もしかしてこの子も?」
 と思うお子さんがいたら、そんなに堅苦しい検査ではないので、試みていただけたらと願います。
 現在のわたしは過剰だった聴覚も恐らく年齢なりに衰え、
「音楽を聴くにはとてもいい耳。けれど聞こえ過ぎていることには変わりないので、自衛はしてください」
 と言われ、ならばテレビが辛い自分は仕方ないとわかったし、好きな音楽をできる限り楽しもうとそんな感じでおります。
 でも長かったなあと何度でも思う。
 自分はおかしい、音が辛い、という毎日。
 知ることができたので、ここからはまず聞こえ方について自分をおかしいとは思わずに過ごすね。
 それは本当に、とても大きな幸いです。
 残念だけど今は好きだった歌い手さんの高音が辛いけど、折り合い方を探すうちにわたしの聴力も変化するかなとそれも楽観的な気持ちでいます。理由がわかったから。
「何か音楽をやらないんですか?」
 二村先生に訊かれました。
 よく聴こえているなくらいには思っていたので自分でもたまに不思議に思うけど、全く奏でられないいつでも聴くのみ。ピアノも怖かったというのもあり。
 音楽はただ聴くために生まれてまいりましたよ。
 これからも楽しみたいです。

 今回わたしがお世話になった、二村典子先生のホームページです。
 私は一音聴いてから押している自覚がありました。
 二村先生が、
「本当はもう一音前に聞こえていますよね。ですからこのグラフより上になります」
 とおっしゃって、本当にきちんと診てくださっているのだなと驚きました。
 とても優秀でやさしい、楽しい方です。

2019/01/29追記
今日海宝直人さんのアルバム、
「I wish. I want.~NAOTO KAIHO sings Disney」
が届いて聴きました。
一応前置きしますが、わたしは一ファンという立場以外の何者でもないです。
わたしのお仕事が微妙な立ち位置なので時々誤解を招くので、念のための前置き。
一ファンのわたしの話です。
聴覚過敏の記事に書いている、スキルアップして高音域が更に得意になった歌い手さんは海宝直人さんでした。
これはわたしの聴力の問題でしかなく、それで当時お名前は伏せました。海宝直人さんは実力をどんどん上げてらっしゃるだけなのに、わたしの身体的理由で一時期彼の歌が聴けなくなってしまっていたわけです。
先日、オーチャードホールを満席にした彼のコンサートに行きました。
自分理由でしかないのだけれど少し不安を抱えて席に着いたら、歌は本当に美しく素晴らしくて、色んな意味で涙が出ました。
昨年も、
「あ、聴くことができるようになった?」
と思いながら、まだ自分に自信がなく。楽しめるのかわからないという。
その間、カウンセリングを続けたり、そしてここは素人の感覚でしかありませんが、海宝直人さんの歌も更に何か美しさを進化させていったようにも思います。
海宝直人さんの歌を初めて聴いたのは、2011年のクリスマスイブでした。震災の年です。明るい気持ちになるのはとても難しい年だった。
心を掴まれ、聴き続けた彼の歌がわたしの聴覚過敏のせいで辛くなったことは、本当に悲しいことでした。
でも、カウンセリングや様々を経て、オーチャードホールで、ただ彼の歌の美しさに涙がこぼれた。
今日アルバムを聴いて、わたしの元に帰ってきてくれた美しい歌声に、本当に幸せになれました。
聴覚過敏のわたしは、その美しい歌声を取り戻すのにはちょっとがんばらないといけなかったかもしれない。
でもちょっとがんばったらもしかしたら何か美しいことを、ひとは取り戻せる可能性もあるよ。
そんな気持ちでいま、
「So close」
を聴いています。
2011年のクリスマスイブに初めて聴いた彼の歌はこの歌で、日本語でした。
美しい歌です。
嬉しいし幸せですよ。
そのためにわたし少しがんばったの。
そんな個人的なお話でした。


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  1. 2019/01/29(火) 14:23:45|
  2. 日記

「七年目の気持ち/岩手県釜石市のこと」

 明日で七年目。
 東日本大震災で犠牲になった方々に、心から哀悼の意を表します。

 ずっと書けずにいた岩手県釜石のことを書きたい。ちゃんと書けるかな。
 六年目のわたしはこんなありさまでした。読まなくてもいいよ。酷いありさま。
 「六年目の気持ち」
 でもそのあと春彼岸に南三陸(赤い鉄骨の防災庁舎のあるところです。二十四歳の遠藤未希さんが、最後まで「高台に逃げてください」と呼びかけつづけた庁舎。彼女の行方はまだわかっていません)に行ったら、お彼岸で集まっている地域の人々に笑顔があった。
 その後五月にまた釜石に行ったら、釜石も友人も前へと歩き出していた。
 わたしも「おうちごはんは適宜でおいしい」(徳間書店)の中で、「東北のおいしいものを食べて知ってと言えるようになった」と書けた。
 けれど3.11が近づいて来て、また気持ちが落ちてきてしまった。
 理由ははっきりしているので、釜石市のことの前に、一つわたしからのお願いにどうか耳を傾けてやってください。
 この時期になると、
「観光やおいしい食べ物を見て。楽しいことを知って。お涙ちょうだいの話はもうたくさん。それが東北の復興の妨げになる」
 こういう言葉をよく見かけます。
 前半は本当にその通りだと思う。見て知って訪ねて欲しい。おいしいしきれいだよ。
 そしてわたしは、あの日に起こったことを知ってとも目を背けないでとも言いません。
 お願いしたいことは、あの日に大切な人の命を目の前で奪われた人々の悲しみに、こういう言葉で蓋をしないでくださいということ。
 これは当時八歳だった少年が、今読書感想文を通してやっと言えたこと。
「母の死“封印”した少年が初めて語ったこと」 
 「助けて」というお母さんを置いて逃げるしかなかった少女。
 「行け」とおばあちゃんに叫ばれて津波から走って逃げたことを悔やみ続ける子。
 七年で癒える悲しみだと思えますか。わたしはとてもそうは思えない。
 お願いです。彼らの悲しみや涙を、見てとは言わない。お願いだから否定しないで。ないことにしないで。誰かが聞きたいといってそれをメディアが流すのなら、見なくてもかまわないから「もうたくさんだ」なんて言葉をどうか吐かないでください。言葉にして初めて自覚して歩き出せるということもあるの。お願い。

 こういう「悲しみの記憶はもうたくさん」という感情が多くの人にあるのがわかっていたので、二年前初めて岩手県釜石市を訪ねたあとわたしは無言になりました。
 実際何も終わっていない釜石市に行って、案内してくれた友人の記憶を聞いて、それを記事にして伝えることが釜石の復興の助けになるとはとても思えなかった。
 その感触は今も変わらないので、今回も詳細には書かない。
 海は嘘のように静かできれいで、雲丹がとてもおいしかった。季節がきたら訪ねて見て欲しい。

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 そこから無言になって、一年後にまた釜石を訪ねました。
 行ってよかった。
 一年前の釜石のことを書きたいから書くよ。希望があったんだよ。二年前には感じられなかった希望があったの。その話を聞いて欲しい。辛い話もあるけれど、そこは多めに見て。
 「帰ったきた海馬が耳から駆けてゆく」(新書館)に書いたけれど、二年前友人は海に近づけなかった。
 手前で車を停めて、
「子どもの頃泳いだりした海なんだけど、行けないから行って来て」
 そう言われて防波堤を越えて見た海は、コンクリートで埋め立てられていた。
 彼女の記憶にある海はなく、埋め立てられたことも彼女は知らずにいた。
 伝えるのは辛かったけれど、見たままを伝えた。
 けれど一年前訪ねたときに彼女は、
「海に行きたい」
 と言った。
 そのときわたしは、
「それはあの海には行けなかったけれど、行ける海があったということなのか。それとも今日初めて行ってみようと思えたのか。いつからか思えたのか。わからないけれど聞かずに一緒に行こう」
 そう逡巡しながら、一緒に海に行った。
 きれいな静かな海でした。海鳥がたくさんいて、上の高架が津波で曲がったままだったけれど、それ以外はごく普通の海。
 小さなお子さんを連れた家族連れ、犬の散歩、みんな普通に浜辺を楽しんでいる。
「あ……」
 ふと彼女が言った。
「震災のあとはずっとみんな、浜辺では下を向いて歩いてたって聞くのに」
「どうして?」
「遺品や……家族の何かを探して、みんな砂を見て歩いてた。でも今日は違う」
「……本当だね」
 家族連れを見つめるとお子さんは三歳くらいで、そうかその日のあとに生まれた命なんだと気づいた。
 一年前はまだ悲しみで身動きができないように見えた釜石市が、変わっていた。
 胸が詰まるとかなにかこみ上げるとかそういう大げさな感情ではなく、私もそれを見てる。
 きれいな海だ。
「海と一緒に生きて来たから、海はやっぱり好きだ」
 釜石で生まれて釜石で育って、震災があっても釜石を離れない友人が、初めてそう言うのをわたしは聞いたよ。

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 この日は大槌町に行った。
「町があったんだよ」
 教えられて言葉もないほどに、何もない。大槌町役場は、きっちり震災のときで時計が止まっている。
 写真を撮る気持ちにはなれなかった。
 震災で家を奪われた人々は、復興住宅に入居して新しい生活をしている。
 わたしは田舎で九十六歳で大往生したばあちゃんがいるのでこれは体感として強くあるけれど、一軒家で生まれ育った田舎のじいちゃんばあちゃんは団地に入っただけで弱っていってしまう。
 土地はあるのだから、本当に必要なのか説明のつかない盛り土やスーパー防波堤の前に、小さくてもいいから平屋の復興住宅を作りたい。福島県にはあるの。無茶な話ではないの。
 その住宅に入った職人のおじいちゃんが、人と交わらず鬱傾向になってという話を彼女から聞いた。
 様々なサークルを作って、元々の仕事に近いものを探してすすめたり、とにかく生きてもらおうって彼女は必死。
「趣味とかないの?」
 彼女はじいちゃんに訊いた。
「そんなのいらないんだ。前はふらっと浜に出て煙草吸ってたら、じいちゃんどうしたのって誰かしらが声かけてくれて喋って。そんなんでよかったんだよ」
 じいちゃんはそう言ったという。
 福島県では原発周辺から立ち退きを強いられて散り散りになった人々が、同じ思いをしている。
「でもそれは……もうとりかえせないものだよね」
 聞いているわたしも、認めざるを得なかった。
「うん」
 クラッシュアンドビルドという言葉を使うなら、この老人たちの声にまず耳を傾けて欲しい。
 もう一度作らなければいけないものは、簡単なことじゃない。取り返しがつかないものなんだよ。
 夜、一年前と同じ居酒屋に行ったら、お店が増えていた。
 相変わらず海の幸は、本当においしい。

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 翌日釜石を離れるときに、朝市を見た。去年から始まったそうだ。
 町の人には大きな笑顔があった。

 この少し前に関東で、六十二歳の女優さんとお話しした。
 小五以来会ってなかった同級生の同窓会に呼ばれて、行ったのよと語られて驚いた。
 どうして行こうと思ったの? と思った。女優さんだからそんな何十年も会っていないのに同窓会に呼ばれて、むしろ嫌じゃなかったのかなって思った。
 女優さんはとても楽しかったと、その同窓会の話をしてくれた。
「わたしも介護や子どものことや離婚や、色々あってね。みんなもがんばって生きてきたんだねえ。いろんなこと乗り越えて、愛おしい、抱きしめたいって抱きしめたの」
 そのときは、その気持ちがわかる日が来るといいけれどまだ遠いかなって思いながら聞いていた。
 でも思いがけず直後に、釜石のごく普通に笑顔をたくさん見て。
 あの日からみんながんばって生きてきたんだね。
 愛おしいなあ。
 がんばって生きてきたんだね。
 わたしもがんばったしわたしもわたしが愛おしい。がんばるねって思えた日だった。
 その五月から一年近くが経って、明日を前にまた気持ちが落ちたけど、愛おしい気持ちを思い出せたし、また釜石にも行きたい。

 七年目のわたしには、一つ大きな変化があったのでそれをご報告して日記を終わります。
 「帰ってきた海馬が耳から駆けてゆく2」(新書館)の震災後の一ヶ月を綴った中に書いたけれど、震災の一週間後からわたしは祈るのをやめました。こんなことをするのが神様ならわたしはもう祈らないと、それ以来頑なに祈らなかった。
 文章の末尾に「祈ってます」と書くべきところにも、わたしは「願ってます」と書く。七年近くそうしてきた。
 去年の十二月に、きっかけがあって震災以来初めて祈った。
 そのときようやく、「祈りは誰かのためにあった。わたしには」と思い出せた。
 神様とはまだちゃんと仲直りはしていなくて、ぎくしゃくしてる。
 でもわたしもこうして変わっていく。

 光のある方へ一人でも多くの人が一歩ずつ行けますようにと、祈る。
 そういう七年目です。
  1. 2018/03/10(土) 14:38:30|
  2. 日記

「わたしTwitter有効活用してるかも?」

 この間友達に話してて、これめっちゃ有効活用だなとふと気づいたのでもしよかったらー、とお薦めしてみる。
 いつの間にかそうなってた、というTwitterの使い方なのですが。
 わたしの場合国際情勢や政治が中心だけど、美術、音楽、文学、歴史、なんにでも応用できると思います。
 わたしの場合なので、国際情勢で説明してみる。
 Twitter上には、大学教授やジャーナリストたちが普通にうろうろしております。
 彼らは! 有事に! ほとんどの人が黙っちゃいられない。「自分の知識に裏打ちされた何か」言わないと気が済まない。
 わたしはそういう方々をリストにぶっこんでいて日々コツコツと読んでいますが、海外の大学で教えている国際政治学者やら社会学者やら民族学者の講義をどんどん読めてしまうのです……すごい有益じゃない!?
 ポイントとしてはわたしは、身元のはっきりしている学者かジャーナリストになるべく絞っています。
 何故かというと彼らは「事実」の話をしたがるので、そこに「感情」をそんなにぶっ込んでこないことが多い。一つの事象、事件に、誰かの激しい感情が入り込むと受け取る側の認知に歪みが生じます。学者には「その事実間違ってる」は死活問題なので「事実」を湾曲しない人が比較的多い。
 じゃあどうやってそういう人を探すか。
 これがいつの間にかそうなっていたところなのですが。
 リツイートなどで「なるほどーそうなんだー。裏打ちされてるようだー」という人を一人見つけるのは結構簡単。探さなくても目に飛び込んでくる。その人をリストに入れる。そうするとその人がまた見識のある人をリツイートする。またリストに入れる。「あ、感情で認知を歪ませる人だ」と思ったらわたしはすぐリストから外します。
 そのリストの中の誰かが以前、
「最近の若者はというけれど高齢者も酷い。会計前に孫がお菓子を開けて食べてるのに、会計するからいいだろうという非常識さ」
 というようなリツイートが拡散されたときに、あるアンケートを取り始めました。
 ちなみに私もこの高齢者の行動は「非常識だ」と思いました。
 そのアンケートは、世界各国ではどういう常識かということで、各国で「うちの国ではそれ当たり前。だってこういう理由だから」「うちでも非常識」というリプライを彼が次々リツイートしました。
 わたしは最初、
「でもここは日本で、日本で起こっている非常識の話だから他国は無関係なのでは?」
 と思いながらそれを眺めていた。
 けれど淡々とリツイートされる世界各国の常識をそれぞれ読んでいたら、
「わたしの常識はわたしの常識でしかない」
 と、ふっと腑に落ちた。
 それは会計前に食べていいと思ったという話ではないんです。
 法律と違って常識は、各自が思い込んで相手に押しつけているものだと思った。
 誰かに対して「非常識」と思ったときに、今後考え方が変わるだろうと思いました。
 それはわたしにはよい気づきだったと思います。

 気をつけないといけないなと思うのは、見ての通りのわたしは結構左よりな人です。
 そうすると、共感するアカウントばかりをリストに入れて行くと、反対側の常識や理屈が全く見えなくなってしまう。
 だから「同意は出来ないけど筋が通っている事実の話をする人」を見つけたらその人もリストに入れます。
 黙ってられない学者達のTwitter講義はわたしにはかなり有益。

 わたしの場合は国際情勢が中心ですが、美大の教授もいればクラシックの専門家もいるので、興味のあることのリスト作りをオススメしてみた。
 政治に関しては、感情で左右に激しく揺れる人を見続けることはわたしはおすすめしないです。右でも左でも。
 そこには大きな不満があるので、その不満にずっとつきあってると自分の心が削られちゃうよ。
 ではまた!
  1. 2018/02/25(日) 13:18:59|
  2. 日記

「被害者に過失があったというのは、加害者がほとんど必ず使ってくる論法」

 タイトルは弁護士さんの言葉です。
 この言葉はあらゆる場面で思い出してください。あなたが何かの被害者になったときにも、被害者と触れ合うときにもどうか思い出してください。
 昨日ツイートした、友人が受けたパワハラについて日記にもう少し詳しく纏めます。今回担当してくださった弁護士さんにも目を通していただきました。
 一つ読む前に念頭に置いていただきたいのは、これは私の友人である彼女のケースだということです。状況、職場、なにより個人はそれぞれ様々違います。
 また、私が出会った弁護士さんは本当に幸運にも優秀で弱者の側に立つ方でした。その幸運は、被害を受けている全ての方に巡ることを心から願います。
 この記事が全てのハラスメントの被害者に適用するということではありませんが、それでも必要な方にこの文章が届くことを願って綴ります。
 なるべく私の感情は省いて、事実を語っていけるように努力しますね。

 友人は現在の職場に勤続10年です。
 私と彼女の友人としてのつきあいは、その何倍もです。
 ここ数年、彼女から聞く言葉のほとんどが職場で受けている不当な対応の話になっていました。
 私は会社に勤めたことがないので聞くことしかできないと思いながらも、
「それはその人がおかしいのでは」
 と、聞いていて言える限りのことを言う。そんな日々でした。
 去年、はっきりと彼女が以前と変わってきたと、感じ始めました。
 友人に対してこうした言葉を使うのは抵抗がありますが、判断力が下がり、社会力が落ちて、それは日常にも及んでいました。
 どんなにパワハラを受けている人物にでも、
「仕事を辞めて欲しい」
 とはなかなか言い出せないものです。その後転職できるのか、転職先なら大丈夫だという保証もないと、自分の責任について考えてしまい言えませんでした。
 それでも言えることを選んで具体的に「こうしたら?」ということを言っても、彼女はまた同じ被害を受けて同じ言葉を繰り返す。
 本当に彼女には申し訳なかったと今も深く悔やみますが、私は苛立ち始めていました。
 何故されるままでいて何も行動しないのかと思っていました。
 秋に彼女らしくない言葉を聞いて初めて、
「あなたの人格に影響している。人生が変わってしまう。今の職場を辞めて欲しい」
 そう言葉にしました。
 その後年末に会ったときに彼女から、クリスマスイブに夜五通続けて送られて来た、上司からの恫喝と脅迫のメールを見せられました。
 そのとき彼女が言った言葉が、私は忘れられません。
「また怒られるかもしれないけど」
 ただでさえ心細い中で、彼女は私にも怯えていたのです。
 メールは喫茶店で立ち上がる程の内容でした。
「これは必ず何かしらの手段がある恫喝だから、専門家に相談したい」
 私から彼女に言うと、「頼りにしている」と言ってくれました。
 このとき思ったことですが、パワハラに限らず何かしらのハラスメントをする人物は、まともに話し合える相手ではないです。メールの内容は、「何故そんなことを言える」と思える人間の良識で書けるものではありませんでした。そういう人物は何をするかわかりません。危険なので個人で対峙しようと思わずに、専門家を頼ることを私は強くお薦めします。ハードルは高くないです。
 師走も押し迫っていた日でしたが、その日のうちに弁護士さんに相談しました。この弁護士さんとは私はなんとその日のたった三日前に出会った方で、すぐさまお世話になるとは自分でも想像しませんでしたが、その弁護士さんがいなかったらと思うと今も恐ろしく、出会えたことは繰り返しますが本当に幸運でした。
 弁護士さんと何往復もメールをして、その度友人に、
「これでいい? 相談に行ける?」
 と確認を取りました。
 あとは会社携帯を返却する(これは辞職とは無関係に事務上決まっていたことです)前に相談に行く日を決めるだけという段になって友人が、
「やっぱりいい」
 そう言い出しました。
 このときのことは、大きな後悔でもあり、けれどそうするべきだったという思いもあり、私自身にはなんとも言えません。
 強い言葉で、「そういうところから変わっていこうよ」と友人を非難しました。
 私の非難に友人は恐らく怯えて、相談日を決めました。
 恐らく今の彼女では話がほとんどできないのではと思い弁護士さんに、
「過保護でお恥ずかしいのですが、ついて行ってもいいですか」
 そう伺うと、
「パワハラやセクハラを受けている方は、ほとんどの方がご友人に付き添われて来ます。ご本人がもう何かできる状態ではないので」
 そう言われました。
 年明け、相談に行く前に弁護士さんに私だけが会って詳しい話をしました。
「友人の判断力や社会力の低下が不安です。人が変わってしまった」
 その話をすると弁護士さんは、
「パワハラを受けている方は、支配から思考が停止してそういう状態になりやすいです。そういう方を何人も見てきたし、身内でもありました」
 ご家族がパワハラを受けたときの経験を話してくださいました。
 私の友人と同じで、あらゆることに反応が鈍くなっていると気づいて、慌てて対処に動いたというお話でした。
 その可能性について私は考えていませんでした。言われて初めて知った次第です。
 友人を連れて、その弁護士さんの事務所に行きました。
 友人は眠れなかった様子で、何度も溜息を吐いていました。
「気さくな方だから緊張しないで」
 繰り返しても、赤い目をして俯いていました。
 事務所の相談室で、相談自体は一時間程でした。相談料は三十分五千円。もしかしたら弁護士さんによってここは違うかもしれないので、自分もと思う場合は確認してください。
 できるだけ口を挟まずに聞いていようと友人の隣にいて、友人がまずその恫喝のメール弁護士さんに見せました。
 弁護士さんはそれを読んで顔色を変えて、
「これは見てきた中でもかなり悪質です。あなたは何も悪くないです。相手が一方的に悪い」
 そう何度も繰り返してくださいました。怒ってもくれました。それは本当にありがたかった。
「こんなことを言われるのは、自分が悪いのかと思っていた」
 友人は泣きました。
 隣で私は泣くまいと堪えましたが、そんなにも彼女が辛い中にいてもう何もできない状態になっているのに、気づくことができなかったことをいくら悔いてもそれは終わることのない後悔です。
「方法は三つあります。労基に入ってもらうこと。民事訴訟を起こすこと。刑事訴訟を起こすことです」
 ここで留意していただきたいのですが、友人の場合、恫喝メールが証拠となって敗訴の可能性は限りなく低いという状況だということです。けれど証拠が手元になくてもハラスメントに苦しんでいるなら、まずこのように専門家に相談はしてみてください。後述しますが、証拠の取り方も説明してくださいました。
 その説明を聞いていて、今回私が思ったところを書きます。あくまで友人の場合の私の判断です。
・友人は裁判を起こせるようなタイプではないことは、事前に弁護士さんに説明してありました。けれど民事訴訟の説明を受けていたら、友人本人が法廷に立たなければならないのは一度で、今回は敗訴の可能性も低いので気力があればと思いました。
・友人はその上司のこと以外には仕事にやり甲斐も感じていて、辞めたくないという気持ちも半分あるとこの日初めて聞きました。そうすると在職しながら職場の上司を訴えるということは、やはりハードルが高い。
・辞めるにしても、民事裁判に勝訴しての慰謝料はだいたいですが百万以下ではないかということでした。それでは転職までの間生活するのにも、あっという間に尽きてしまう。この場合裁判の目的は、加害者にきちんとした社会的な制裁を与えるためということになります。
・だとしたら労基に入ってもらって、会社に対応をしてもらうのがベストなのではないかと私は思いました。
・こうした被害の時効は三年。退職して転職してから、行動を起こすことが本人に最も負担が少ないのではないかと思いました。
 弁護士さんが友人に言ってくれた言葉は、
「あなたは何も悪くないのだから、どうするのかを選ぶことも全てあなたの権利です。負担なら何もしない権利もあるんですよ」
 ということでした。
 それも聞いている私には、とてもありがたい言葉でした。
 証拠の取り方は、
・このようなメールが来たら、日付や送り主のメールアドレスがわかる形でスクリーンショット、あるいは携帯全体を撮影するなどして、更にプリントアウトする。この辺りは間違えると怖いので、本当に専門家に改めて尋ねてください。
・日付の入っている手帳に、受けたパワハラを記録するだけでも証拠になり得る。
・言葉での恫喝があるなら、レコーダーを持って、呼び出されたとき、二人きりになるときなどに、あらかじめ録音状態で鞄やポケットに入れておく。何かあってから録音ボタンを押せる人は少ない。暴力を受けても音声が入るので、音のデータで充分。
 繰り返しますが、証拠については改めて専門家に各自確認はしてください。
 やはりその場で友人は決められませんでしたが、一つ一つやって行こうと相談を終わりました。
「何かあったら私に連絡してください。電話をいただく分には相談料はかかりません。私があなたのことを気に掛けていると忘れないでください」
 弁護士さんが最後にそう言ってくれました。
 食事をしてレコーダーを買って帰ろうと、店に入りました。
「ごめん」
 と、友人は泣きました。
 私にも見捨てられるのかと怖かったと言いました。
 そう思わせてしまうだけ自分が苛立っていた自覚が、はっきりあります。心細く傷つき果てている友人になんと思いやりが足りなかったのかと、その後悔は終わりませんが、これから彼女にできることをしていこうと思います。
 これは結果論ですが。
 その恫喝メールを受け取った友人のそのときの心境を思うととてもよかったとは言えませんが、その決定的に相手がおかしいとはっきりわかるメールがなかったらと思うと、私は怖いです。
 友人が変わってしまった理由が支配であると気づかないまま時が経っていたら、もっと取り返しのつかないことになっていた。
 また、そのメールがあるので、裁判になったとしても間違いのない証拠になります。
 これからできることをしていくけれど、一番の後悔は被害者である友人に対して、
「あなたは何も悪くない」
 という一番大切な言葉を、私はもう言わなくなっていたということです。
 弁護士さんがそう言ってくれたときに友人がどれだけ安心したのかわかって、言葉にはできない後悔に息が詰まりました。
 これは彼女のケースです。
 訴訟のことなどは全ての人に当てはまらないだろうし、また弁護士さんも本当に色々です。気力がなくても、まず弱者に立つ案件を扱う弁護士さんかどうかを確認してから相談してみて欲しい。
 具体的なことでもこの記事が、苦しんでいる誰かのお役に立つことを願います。
 そして今回何より伝えたいのは、この記事のタイトルの言葉です。
 被害者は被害者でしかない。
 被害を受けた人自身にその被害の原因があるというような人間は、加害者と同等だと私は強く思います。
 私も友人に対して、そうだった。
 そのことはこれからも忘れることはないです。

 相談のあと、友人は安心から寝ついてしまいました。
 体調が復調して、誘っていたクラシックのコンサートに行きたいと言ってくれました。
 そういったこともここのところなかった。
 無理なくゆっくり楽しいことを一緒に積み重ねていきます。
 もし彼女がやっぱり行けないと言ったら、また今度と。
 少しずつです。

 今回お世話になった弁護士さんが、言葉を寄せてくださいました。
 最後に追記します。
 本当にありがとうございました。

『パワハラ事案は定型的ではなく、被害も様々で、対応策も場面場面によって変わってきます。対策や防衛策については、一般論より、「あなただけの」専門家に相談するのが1番です。
弁護士は守秘義務を持っていますから、どんな相談をしても大丈夫です。誰にもできない相談なら、まず弁護士に相談してみてください。
「傷つけられるのは被害者が悪いから」なんてことあるわけがないんです。傷つける人が悪いに決まってます。でも、それが信じられなくなってしまったらその時には私たちに、本当のところ、私のケースはどうかな?って相談してみてください。
私たちは、助けたくてここにいるんですから。』
  1. 2018/01/22(月) 12:56:04|
  2. 日記
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